このところ、種々の事情によりなかなか読書時間が取れないのですが、なんとかこの『すべては「好き嫌い」から始まる 仕事を自由にする思考法』を読み終えました。
本書は、「良し悪し」よりも「好き嫌い」 という姿勢を貫き、現代の経済活動・生活の様々な側面をあくまでも「個人の好き嫌い」の問題として考察し、掘り下げていきます。
その一貫した価値観は清々しいほどに見事で、私は「好き」です。
私もタイプとしてはどちらかというと「好き嫌い」族ですが、時々「良し悪し」をこねくり回して偉そうにしてしまうこともあるので、身を引き締めて今後はゆるい「好き嫌い」族に徹しようと決意を新たにした次第です。
本書のはじめに、「好き嫌い族」宣言があり、以下のように良し悪し族と好き嫌い族が定義されています。
良し悪し族は世の中を縦に見る。見るもの聞くものを良し悪しの縦軸に当てはめて価値判断をする。「悪いこと」を指弾し、世の中からなくそうとする。「良いこと」を増やし、伸ばそうとする。
好き嫌い族は世の中を横に見る。ミクロな視点といってもよい。それぞれに好き嫌いが異なる個人の集積として世の中をとらえる。人それぞれだからノリやソリが合わないこともしばしばだが、「ま、それぞれの好き嫌いだからイイんじゃないの....」とやり過ごす。
もちろん普遍的な価値観が共有されていなければ世の中は成り立たないので、良し悪しの基準については社会全体で時間をかけて堅牢な合意を形成する必要がありますが、それはあくまでも氷山の一角。市場経済や自由主義という「普遍的な価値観」にしても水面下でそれを支えているのは独立した人格を持つ多数の人々の好き嫌いである、というのが著者のスタンスです。
私が深く納得したのは、モノを作って売るにせよ、サービスを売るにせよ、芸を売るにせよ、誰からも好かれようとするのではなく、「誰に嫌われるか」をはっきりさせ、そういう人からはきっちりと「嫌われにかかる」ことが仕事の理想と説かれていることです。「分かる人にだけ分かってもらい、好きになってもらう」というスタンスの裏返しではあるのですが、「分かる人にだけ~」にはまだちょっと「嫌われる」ことに対する躊躇というか、ちょっと残念に思う感じが残されているのに対して、「きっちりと嫌われにかかる」というのはそうした未練たらしさをスパッと割り切り、「こういう人に嫌われてこそ自分の作品」という奇妙な潔さを感じます。
「嫌い」という感情は、実際のところ「好き」の反対のようで反対ではありません。対象に関心があるから「嫌い」という感情がそもそも引き起こされるので、「関心を持つ」という点では「好き」と同じといえます。本当の意味での反対は「無関心」でしょう。
だから、「きっちりと嫌われにかかる」というのは、プロヴォケーション、わざわざターゲットを決めて刺激し、炎上させるような姿勢に通ずると思います。
また、著者はインターネット上に跋扈する未熟な良し悪し族を批判しています。どう考えても100%個人的な好き嫌いの問題を良し悪しとすり替えて(勘違いして)、自説を主張したり人を攻撃したりする良し悪し族は「バカな未熟者」とバッサリ切る一方、悪いと思われないように、過剰に人目を気にする人たちもいる現実は「良し悪し地獄」だと指摘します。
これには身の引き締まる思いがしました。それで、今後はもっとゆるい「好き嫌い族」でいこうと思った次第です。
私はこの本が「好き」になりましたが、あなたはいかがですか?