「どうも、お世話(せわ)になっております。その節(せつ)は、有難(ありがと)うございました」
彼の声は何だがうわずっていた。あたしには分かるの。あたしはちょっと意地悪(いじわる)して、
「ねえ、昨夜(ゆうべ)は楽しかったね。今度は、どこへ連れてってくれるの?」
あたしは甘(あま)えた声でささやく。彼の声はますますうわずってきて、
「いや…。その件(けん)につきましては、後日(ごじつ)こちらからご連絡(れんらく)をさしあげますので…」
まだ昼間(ひるま)の時間だもの、きっと仕事中(しごとちゅう)なんだわ。周(まわ)りの人に気づかれないように、必死(ひっし)に誤魔化(ごまか)してる。彼の困(こま)っている顔が目に浮(う)かぶようだ。
あたしはちょっと怒(おこ)った振(ふ)りをして、「そんなのイヤだ。待てない」
「あの、私の一存(いちぞん)では…。前向(まえむ)きに検討(けんとう)させていただきますので。では、失礼(しつれい)いたします」
――彼は電話を切り、カバンの中へスマホを投(な)げ入れた。彼のそばには別の女性が――。
その女は彼の横(よこ)に座(すわ)ると、「仕事の電話でしょ。会社(かいしゃ)に戻(もど)らなくてもいいの?」
彼は女を引き寄(よ)せると、「大丈夫(だいじょうぶ)だよ。もう少しここにいたいんだ」
二人は唇(くちびる)を重(かさ)ねる。そして、名残惜(なごりお)しそうに見つめ合う。女はたまらなくなって彼を抱(だ)きしめると、耳元(みみもと)にささやいた。「今度は、いつ来てくれるの? 待たせちゃイヤよ」
カバンの中では、スマホが二人を急(せ)き立てるように鳴(な)り出した。
<つぶやき>人は隠(かく)し事をするものなのか。程(ほど)ほどにしないと全てを失(うしな)うことになるかも。
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