薄暗(うすぐら)いバーのカウンター。一番奥(おく)まった隅(すみ)が、彼の指定席(していせき)だった。彼は何時(いつ)も決(き)まった時間にここに来て、この席に座る。そして注文(ちゅうもん)するのは、いつも決まってバーボンのストレート。
そこへ、見知(みし)らぬ女が近寄(ちかよ)って来た。その女は男に甘(あま)い声でささやいた。
「ねえ、あたしにも一杯(いっぱい)くださらない?」
男は、女の方を横目(よこめ)で見ると静(しず)かに言った。「ああ、同じものでいいのかい?」
女は男に微笑(ほほえ)みかける。男はバーテンに目配(めくば)せした。
女はさらに男に近づいて言った。「ここ、いいかしら?」
男が静かに肯(うなず)くと、女は隣(となり)の席へ身体(からだ)を滑(すべ)らせた。――女の前にグラスが置かれると、真っ白な華奢(きゃしゃ)な指(ゆび)でグラスを取り、男にグラスを差(さ)し出して酒(さけ)を口へ運(はこ)ぶ。その仕種(しぐさ)は優美(ゆうび)で、娼婦(しょうふ)には似(に)つかわしくなかった。彼女にはまだ気品(きひん)というものが残(のこ)っていて、それが彼女をいっそう艶(なま)めかしい女に見せるのだ。きっと世(よ)の男たちは、誰(だれ)もがこぞって自分のものにしようと願(ねが)うだろう。それだけの価値(かち)のある女だ。
男は、女を見るでもなく、ひとりグラスを傾(かたむ)けた。女はじれったそうに、
「ねえ、今夜は、あたしと付き合ってくれない?」
男は女に視線(しせん)を向けると、「ああ、それはいいねぇ。でも、このあと先約(せんやく)があってね」
<つぶやき>美しい女性には刺(とげ)がある。でも、それは表向(おもてむ)きの仮(かり)の姿(すがた)なのかもしれません。
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