災害などに関することを当事者でない者が語ったり聞いたり書いたりすることは、やはり難しい部分があると思っています。
それは、経験しないとわからないであろうことが多すぎて自分の想像力が及ばず、誰かを傷つけてしまうかもしれないことが怖いからです。
でも自分は3.11の時に日本にいなかったという背景から、あの日三陸に何が起こったのかどうしても知りたくなり、被災地に足を運び、お話を聞いたりしてきました。
昔のことを忘れかけている自分の備忘録的にあの当時のことを振り返ってみたいと思います。
自分は2010年の12月から1年3ヶ月ほど、文化庁の在外芸術家研修員としてベルリンに住んでいました。
バレエ団を退団し、今の自分を試すため、そしてこれからの舞踊家/振付家としての自分を磨くために、路上やバーやカフェ、美術館、そして劇場などで踊って過ごしていました。
3月11日はようやくドイツでの生活に慣れてきた時でした。
ドイツ時間の8時半ごろに目覚めて、ふと(いつも起きてすぐには見ないのになぜか)スマホでニュースを見て、“何が起きたのか?映画なのか?”としばらく事情を理解できなかった記憶があります。
東京の両親には幸いすぐに連絡が取れ、無事を確認できました。
Angel Rにもすぐに連絡を取り、状況を教えてもらったりしていました。
震災が起こったことにより、私の研修内容も変化があったのですが、そこは割愛。
そしてそれからちょうど1年後の2012年3月10日に帰国。
東京に帰ってきてまずある種の「違和感」を感じてしまいました。
それまでのベルリン生活の中では、東北はおろか関東そして日本全体が放射能に汚染されて灯りも少なくどんよりとした状態であるという印象が自分の中に植え付けられてたのですが、実際東京の灯りはむしろドイツの方が暗いくらい煌々としており、翌日の3月11日がすぎると震災の話題もあまり聞かない。。
後から思えば、ドイツ人は原発に対して並々ならぬ危機感を抱いていて、そういった話題を議論し合うことも日常の国。そんな会話を重ねていくうち、日本に対する危機感が必要以上に育まれていったのだと思います。だから生まれた「違和感」でした。
しかしこれは全く自分勝手なもので、自分は揺れを経験してもいないし、1年経ってある意味浦島太郎的に勝手に芽生えさせていた違和感でしかありません。
しばらくモヤモヤしていましたが、この違和感は自分の足で被災地を訪れて自分の目で見てみないと拭えないのだと気づき、被災地を訪れるようになりました。
初めて訪れたのは電車で辿り着ける宮古、次に大船渡、そして気仙沼。
2012年からコロナ渦が始まる前の2019年まで通い、それぞれの地でたくさんの出会いがあり、生き様を見せていただき、ここに一度には書き切れないほど心動かされる出来事をたくさん経験させていただいていました。
2025年、震災から14年、コロナ渦からも5年が経とうとしている今、まさかこのような山林火災が起きるとは、誰も予想していなかった。。
この2週間、わたしのFacebookのタイムラインは山林火災の様子でいっぱいになり、そして昨日は震災に関する投稿が流れていました。当事者の方の投稿より、その後に関わった方の方が多かったかな..
災害時は「てんでんこ」が鉄則だから、それで助かる命があると同時に、今回のような悲しい事象も起こってしまう。
FBでもそういったたくさんの情報を見ることができますが、自分のことではないけれど悲しい事実に目を向けたくない気持ちが湧き上がり思わず読み飛ばそうとする自分がいます。が、いやそれではダメだ、と読み進める。生きていることが、普通の生活があることが、かけがえのないものなのだと思い知らされる。3.11は毎年そんな日です。
ひとの痛みはその人にしかわからないし災害の傷は私には到底想像が及ばないけれども、大切なひとや場所・ペットや宝物をなくす気持ちは、誰もがわからないわけはない気持ち。
自分の悩みなどなんてちっぽけなんだと、感謝の想いが湧き上がる。
本当はなにもなくともその心持ちを忘れてはならないのですよね。。

それは、経験しないとわからないであろうことが多すぎて自分の想像力が及ばず、誰かを傷つけてしまうかもしれないことが怖いからです。
でも自分は3.11の時に日本にいなかったという背景から、あの日三陸に何が起こったのかどうしても知りたくなり、被災地に足を運び、お話を聞いたりしてきました。
昔のことを忘れかけている自分の備忘録的にあの当時のことを振り返ってみたいと思います。
自分は2010年の12月から1年3ヶ月ほど、文化庁の在外芸術家研修員としてベルリンに住んでいました。
バレエ団を退団し、今の自分を試すため、そしてこれからの舞踊家/振付家としての自分を磨くために、路上やバーやカフェ、美術館、そして劇場などで踊って過ごしていました。
3月11日はようやくドイツでの生活に慣れてきた時でした。
ドイツ時間の8時半ごろに目覚めて、ふと(いつも起きてすぐには見ないのになぜか)スマホでニュースを見て、“何が起きたのか?映画なのか?”としばらく事情を理解できなかった記憶があります。
東京の両親には幸いすぐに連絡が取れ、無事を確認できました。
Angel Rにもすぐに連絡を取り、状況を教えてもらったりしていました。
震災が起こったことにより、私の研修内容も変化があったのですが、そこは割愛。
そしてそれからちょうど1年後の2012年3月10日に帰国。
東京に帰ってきてまずある種の「違和感」を感じてしまいました。
それまでのベルリン生活の中では、東北はおろか関東そして日本全体が放射能に汚染されて灯りも少なくどんよりとした状態であるという印象が自分の中に植え付けられてたのですが、実際東京の灯りはむしろドイツの方が暗いくらい煌々としており、翌日の3月11日がすぎると震災の話題もあまり聞かない。。
後から思えば、ドイツ人は原発に対して並々ならぬ危機感を抱いていて、そういった話題を議論し合うことも日常の国。そんな会話を重ねていくうち、日本に対する危機感が必要以上に育まれていったのだと思います。だから生まれた「違和感」でした。
しかしこれは全く自分勝手なもので、自分は揺れを経験してもいないし、1年経ってある意味浦島太郎的に勝手に芽生えさせていた違和感でしかありません。
しばらくモヤモヤしていましたが、この違和感は自分の足で被災地を訪れて自分の目で見てみないと拭えないのだと気づき、被災地を訪れるようになりました。
初めて訪れたのは電車で辿り着ける宮古、次に大船渡、そして気仙沼。
2012年からコロナ渦が始まる前の2019年まで通い、それぞれの地でたくさんの出会いがあり、生き様を見せていただき、ここに一度には書き切れないほど心動かされる出来事をたくさん経験させていただいていました。
2025年、震災から14年、コロナ渦からも5年が経とうとしている今、まさかこのような山林火災が起きるとは、誰も予想していなかった。。
この2週間、わたしのFacebookのタイムラインは山林火災の様子でいっぱいになり、そして昨日は震災に関する投稿が流れていました。当事者の方の投稿より、その後に関わった方の方が多かったかな..
災害時は「てんでんこ」が鉄則だから、それで助かる命があると同時に、今回のような悲しい事象も起こってしまう。
FBでもそういったたくさんの情報を見ることができますが、自分のことではないけれど悲しい事実に目を向けたくない気持ちが湧き上がり思わず読み飛ばそうとする自分がいます。が、いやそれではダメだ、と読み進める。生きていることが、普通の生活があることが、かけがえのないものなのだと思い知らされる。3.11は毎年そんな日です。
ひとの痛みはその人にしかわからないし災害の傷は私には到底想像が及ばないけれども、大切なひとや場所・ペットや宝物をなくす気持ちは、誰もがわからないわけはない気持ち。
自分の悩みなどなんてちっぽけなんだと、感謝の想いが湧き上がる。
本当はなにもなくともその心持ちを忘れてはならないのですよね。。
