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あまんきみこの『あるひあるとき』を読んで(更新)

2020-09-01 10:22:46 | 日記
この記事は、昨日一旦アップした記事を書き改めたものです。

あまんきみこの最新作童話『あのひあのとき』はあまんきみこのこれまで以上の傑作、
「戦争と平和」の問題でもありながら、生命の源泉の在り方、命の尊さが祈りの中で、語られていると感じました。
これはいのちのつながりのお話、これをあまんきみこさんは人類全体に送る祈りの言葉として、
ひとつの詩として、このお話に結晶化されていると感じました。

冒頭、近所の子供、小さいユリちゃんは大事にしているこけしに子守唄を語りきかせながら、
自分で眠ってしまいます。
次に「わたし」はその様子を見ていて、ふいに自分が大連にいた幼いころ、
こけしのハッコちゃんに子守歌を聞かせていたことを思い出します。
当時、幼い「わたし」は日本に出張に行って戻ったお父さんから、
きれいな市松人形や西洋人形とともに、こけしのハッコちゃんをお土産にもらいもらいます。
このこけしのハッコちゃんを特別にかわいがったため、
こけしはよごれていました。
「わたしがかぜをひくとハッコちゃんもかぜをひ」く、
「わたし」とハッコちゃんは二人で一人です。
当時は戦争中でしたから、防空壕でも「わたし」はハッコちゃんを手放しません。
終戦になり、それから帰国するまでの二年間、父母は家ものものを売って暮らしました。
市松人形や西洋人形は売れても、手垢で汚れているハッコちゃんは売れません。
そのため、「わたし」はハッコちゃんと
「よかったね。」「よかったよ。」のスキンシップのなでなでが出来ました。
しかし、引き揚げの日が決まった時、ハッコちゃんは連れて帰れません。
ストーブにくべられます。
「わたし」にはこのときの「ごおっとほのおの音」だけがよみがえり、
あとはなぜか覚えていません。
その後お話は冒頭の時間に戻り、ちいさなユリちゃんに毛布をかけてあげます。
末尾は「メンコ メンコト コケシハ マルコクナッタノサ」で終わります。

敗戦から75年の現在、「わたし」は年老いています。
「わたし」は日本に戻り、その後の現実生活、さまざまな海山を超える出来事があった、
しかし、語り手の「わたし」はそれらを一切語っていません。
「わたし」は「わたし」自身の生とは何だったか、
その総体とでもいうべき人の命の在り方を考えざるを得ません。
「わたし」はハッコちゃんを失って今があり、
「わたし」がいかに内奥に一種の空洞を抱えているか、
その大きさを感じずにはいられないのです。
「わたし」は今、ちいさいユリちゃんにハッコちゃんを失った自身の生を重ね、
ユリちゃんにはそうあってほしくないと強く願っています。
ハッコちゃんの命を殺した戦争を繰り返さない、
いのちを繋ぐ、ここに祈りの言葉になっています。