〈第三項〉論で読む近代小説  ◆田中実の文学講座◆

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『高瀬舟』は「読むこと」の問題が満載(1)

2020-09-25 19:58:10 | 日記
しばらく、ブログの記事執筆を怠っていました。
お許しください。

前回の記事では『高瀬舟』は「読むこと」の問題が満載と書きましたので、
それについて、お話します。

先週の19日、甲府の講座で話したことです。
そもそも小説の面白さの醍醐味とは、筋(ストーリー・プロット)を通して、
その筋を筋たらしめるメタ筋、〈メタプロット〉を読み解く過程で、
自身の世界観・価値観が揺すぶられ、これまでの思考の制度性、
感受性の在り方が瓦解・倒壊し、自身がその作品の力に拉致されていく、
そうすることで、新たな価値・感動に出会う体験をしていく、
こうした類のことかと思われます。

私にはこの『高瀬舟』もまた、そうした地平へ、位相へと誘ってくれる傑作と感じます。
したがって、それは前回述べました、指導書がテーマとする『縁起』で言う二つの問題、
「財産というものの観念」」が「面白い」、
「安楽死」のことが「ひどく面白い」ことに帰着しません。
それは『翁草』の「流人の話」を読んだ鷗外の感想であり、
小説『高瀬舟』の中では視点人物、羽田庄兵衛のまなざしに映るものでしかありません。

小説『高瀬舟』を読み、この醍醐味を捉えるには、
『高瀬舟』のメタ筋、メタ〈プロット〉、すなわち、作品の構造性である、
〈語り―語られる〉、〈語りの仕組み〉を読み解き、これを解き明かす必要があるのです。
それには視点人物羽田庄兵衛とその対象人物喜助とが
如何にナレーター(語り手)から語られているか、これを読み取ることが、基本です。

ナレーターはリスナーに出来事のすべてを語り、その中に登場人物たちが登場します。
そのお話の中で、登場人物たちが語り合うのですが、それはナレーターに支配されています。
ナレーターは傀儡師、登場人物は傀儡の人形に匹敵するのです。
その意味で、ナレーターはほとんど、関係概念である作品の作者と同じですが、
作者はタイトルや署名にまで関わっているところが、ナレーターとは異なります。

そこで、視点人物とその視点人物の捉えている対象人物の相関が問題になります。
視点人物羽田庄兵衛にとって、自分の向き合っている相手、
対象人物喜助の主体は視点人物のまなざしの外部にあり、
喜助の内側は捉えることは出来ません。
それに対して、ナレーターは視点人物、対象人物双方とも、
その内側から語っているのです。
ナレーターは視点人物を語り、且つ、その視点人物の捉える対象人物のことをも語るのであり、
この重層性を捉えることが肝要です。

この物語の核心は対象人物として登場する喜助の内奥に隠れていて、
ナレーターは喜助当人から直接それを語らせています。
しかも、喜助はお奉行所で異例の長丁場、半年もの間、役人たちに向かって、
弟殺しの現場の様子を何度も何度も反芻させられています。
そこで、その出来事のあらましはナレーターが断わっているように、
条理が整いすぎているかのように整い、過不足なく語られています。
長くなったので、続きは次の記事で具体的に説明します。