〈第三項〉論で読む近代小説  ◆田中実の文学講座◆

近代小説の読みに革命を起こす〈第三項〉論とは?
あなたの世界像が壊れます!

中村龍一さんから(差替え)

2021-08-18 21:03:35 | 日記
前回掲載した中村龍一さんの記事ですが、ご本人から書き直したので、
差し替えて下さいとのご要望がありました。
以下に掲載します。

「原理論」は「方法論」とどう違うのだろうか
     ― 「私」=「反私」―
                              中村 龍一

〈第三項〉理論は方法論ではない、その方法論のもとになる原理、伝統の「客観的現実」という世界観を転換した原理論である・・・・・・・(田中実)

 ‘21年8月8日(日)に開催された「『文学研究✖国語教育』の会」設立夏期研究集会で、ゲストの田中実さんが〈第三項〉理論は「方法論ではなく原理論だ」と述べ、閉会挨拶では敬愛する横山幸信さんがこのことに触れた。私は国語教師と共に悩むことをしてきたにすぎない国語教育研究者であるが、その立場から「方法と原理の問題」を考えてみる。
国語教育界で文学作品の〈読み〉を追究する団体は「〈読み〉の方法論」の独自性をそれぞれ主張していると言って間違いではないだろう。それは文芸研、児言研、言語技術、分析批評、読者論、あるいは表現活動による再構成等と多種多様である。
 しかし、田中実さんは「〈第三項〉理論は方法論ではない。その方法論のもとになる原理論」であると言う。ここで極めて大事なのは、「方法論のもとになる原理論」という認識であろうと、私は受け止めている。方法のない〈読み〉の授業はあり得ない。ただ方法論の定式化を〈第三項〉論は求めていないということなのだ。裏返せば、方法は授業者の必要であり、それぞれの授業者の自由だということにもなろう。
 〈第三項〉論は、「原理」を問うているのだ。ではその原理とは何だろうか? 「客観的現実」を転換した「世界観認識」と田中さんは言う。では「客観的事実」をどう「転換」するのだろうか?

我々が読んでいる文学作品の文章の、文字の羅列は、実は、客観的に実体として実在する文学作品の文章ではないのです。そこには文字という言語の隠れた秘密があります。
主体と客体ともう一つ、主体と客体の外部、その〈向こう〉に永遠に沈黙し続ける、了解不能の「客体そのもの」という〈第三項〉を考える必要があるのです。(傍線中村 以下同)

文学作品の叙述を問題にする以前に、まずこの田中実さんの言語論を咀嚼して得心できなければならないのではないだろうか。そう私は考えている。しかし、「永遠に沈黙し続ける」(了解不能の「客体そのもの」)をどうしたら考えることなどできるのであろうか?

小説がおもしろく、文学評論が難しいと思うのは、小説は物語を語ることによって、言葉や、言葉によって作られる概念の外にあるもの、言葉からはずれるもの(言葉が抱えきれないもの)を内包する生きた人間を描写することができ、読者はそれを読むことによって、世界に向けて目を開くことができる(石川晴美)

石川さんのコメントに“「なめとこ山の熊」の世界観のように、個が個でありながら、同時に全体でもあると感じられるような世界が未来に出現するのか”とありました。
「個が個でありながら、同時に全体」こそ、『私』=「私」+反「私」の世界観で、先生のブログの中の“人と人、あるいは人と他の生き物の間に、双方の「魂」と「魂」を響き合わせること”につながるものと思いました。(古守やす子)

今回の石川晴美さんや古守やす子さんのブログを拝見して、「そう、そこなんですよね」という共感が私にはあった。言葉は主体と客体と了解不能の「客体そのもの」という言語観、その「言語論に基づく〈読み〉の原理」と中村は考えてきた。古守さんの発表をお聞きして古守さんもそう考えていらっしゃるように思う。

例えば、村上春樹の最新の著書『一人称単数』の同名小説「一人称単数」の「出来事」(物語のプロット)は、主体である視点人物〈私〉と、客体の地下のバーで会った五〇歳前後の見知らぬ〈女〉の相関関係が語られている。
「気持ちの良い春の宵」、数年前に買ったポール・スミスのダークブルーのスーツ(必要あって買ったのだが、まだ二度しか袖を通したことがない)を着て、妻が留守の日、一度も行ったことのない地下のバーに行ったのである。そのバーにいた〈女〉が、自分の〈友だち〉に「自分がどんなひどいことを、おぞましいことをなさったかを。恥を知りなさい。」と言うのだ。しかし、〈私〉には全く記憶がないのである。〈私〉にしてみれば、「どう考えても不当な糾弾だったが」なぜかそれに反論できなかった。それは「実際の私でない私が、三年前に「どこかの水辺」で、ある女性 ―おそらく私の知らない誰か― に対してしたおぞましい行為の内容」が明らかになることをたぶん怖れたのだと思うのである。しかし、帰ろうとして、バーの階段を上がって外に出ると、「季節はもう春ではなく、空の月も消えて」、私は異界の街の通りに立っていた。「街路樹の幹にはぬめぬめとした太い蛇が巻き付き・・・・・・歩道には真っ白な灰がくるぶしの高さまでつもっており、そこを歩いて行く男女は誰一人顔を持たず・・・・・・「恥を知りなさい」」と、声が〈私〉に聞こえたのである。これが結末である。救いのない物語の結末である。
「出来事」(物語のプロット)は作りごと、「客観的事実」ではない。しかし、この「罪の牢獄」が視点人物〈私〉の虚構の「客観的事実」(リアル)となってしまったのである。全く記憶がない〈私〉は「実際の〈私〉でない」〈私〉を存在させて、辻褄を合わそうとしている。
〈女〉は「〈友だちと女〉」の虚構の「客観的事実」(リアル)を生きている。しかし、〈私〉が、水辺でおぞましいことをしたという〈友だち〉は人物として登場しない。了解不能の〈他者〉である。発狂したのか? 自殺したのか? 読み手に語られることはない。

村上春樹の『クリーム』に書かれたこと、「中心がいくつもあって、しかも、外周を持たない円。」、これは存在しません。そうした存在しない円こそ人の生、人生であるとする不条理、これとの相克を強いられているところに近代小説の《神髄》があると私は考えています。(田中実)

何故なら、「人生」が不条理だから。作品を自分の世界の枠組みに取り込み、消費するのではなく、作品に取り込まれて、自身が世界を新たに捉え直し続けること、そこに読むことの意味、意義があります。それには〈作品の意志〉に従うことです。作家・作者にでも、読者にでもない、〈作品の意志〉に従う、作品それ自体が持つ、作品独自の〈言葉の仕組み・仕掛け〉に応じて、拉致され、そこに放置される。読み手の主体が瓦解・倒壊されて、主体は再構築されていかざるを得ない、これが読むことです・・・・・ (田中実)

一人称小説は、物語の中に視点人物としての〈私〉が登場する。村上春樹の小説「一人称単数」でもそうである。視点人物〈私〉には〈女〉がいかに罵倒しようと覚がないのである。視点人物〈私〉の物語のリアルと対象人物〈女〉の物語のリアルはすれ違う。
しかし、読者は物語の外部にいて、〈私〉と〈女〉の不条理を受け止め葛藤するのである。舞台で繰り広げられる不条理劇は観客一人ひとりの内面で葛藤のドラマがおこる。舞台上の〈私〉は「一度も行ったことのない地下のバー」だと思っている。ところが観客席の〈私〉は、バーにあの〈女〉が偶然いた。これはなぜだ。あまりに「不可思議」ではないか。
実際は忘れてしまっただけであって、また、同じスーツを着て、同じバーに行ってしまったのではないか。このような〈仕掛け・仕組み〉の発見が、読み手である中村の〈本文〉を瓦解させた。妻の不在が、ダークブルーのスーツが、〈私〉の深層からあの日を浮上させてしまったのではないだろうかと。新たな構造を得て中村の〈本文〉は再構築された。
読み手が読めば現象する生身の物語の〈語り手〉に対して、この作品の〈仕掛け・仕組み〉を〈機能としての語り手〉と田中実さんは名付ける。物語の深層で何を伝えようとしているのか、そのまなざしを捉え、メタプロットの「内的必然性の力学」に徹することが〈作品の意志〉に従うことなのだろう。そう田中さんから学んだのだが、具体的作品に向き合うと自分の世界の枠組に取り込んでしまうのが中村なのである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする