〈第三項〉論で読む近代小説  ◆田中実の文学講座◆

近代小説の読みに革命を起こす〈第三項〉論とは?
あなたの世界像が壊れます!

坂本さんのコメントを拝読して

2020-12-31 17:01:23 | 日記
大晦日になりました。
12月28日の記事に、坂本さんからもコメント欄で質問を頂きましたので、
坂本さんの突き詰めたお考え、感銘を受けました。
そこで、応答させていただきます。
それには、先にお断りして置かなればならないこと、
それは20日の私の話は、2021年3月
都留文科大学の大学院紀要の内容を既にお見せしていること、
それを踏まえて、当日はお話をしました。
従って、前回の古守さんのコメントも同様ですが、
三月発表の拙稿の解説をそこで先にしていることを
お断りしておきます。

坂本さんのコメントは以下の様です。

田中実先生

「客観的現実」はない。世界はその主体に捉えられたものである。世界そのものは捉えられない。

「私とは何か」という問いはおそらく誰もが問うことだと思います。
そして自分では捉えられないものを感じ、「偶然」の要素の入り込む私なのだということも
多くの人が考えるところだと思います。しかし、自分には分からない自分というものを受け入れ、
自己肯定して済ませて安心しているのが坂本です。「客観的現実」はない、
と理解していると思っているにも拘わらず、坂本は坂本の思う「私」を
実体的に受け入れようとしているのです。自分を壊すのが恐ろしいからだと思います。
幼い頃の「私はなぜ私なのか」という問いの恐怖から逃げて忘れて来ました。
中学校の教員というアイデンティティで生き延びてきました。
そういう私に大転換を求めるのが、〈第三項〉論です。
「システム」の中にあって作りあげてきたアイデンティティを、
その因果を消去せよと先生はおっしゃいます。誰もが可能なこととは思えません。
しかし、「自己消失」を目指して「自己倒壊」を、「自己倒壊」を目指して「読むこと」を、
先生の導きによって少しでも実現したいと願う者です。

村上春樹『雑文集』(2011新潮社)の最初のところに、
読者からの「自分自身を説明すること」の問いに答え、ハルキは、
たとえば牡蠣フライについて書くことを勧めていました。
「そこにはあなたと牡蠣フライとのあいだの相関関係や距離感が、
自動的に表現されることになります。」と。
語り手と語られたものとの相関関係で、語り手がいかなる者かが表現される、
という田中先生のご論とぴたっと一致していて、今更ながら「そうか」と思いました。
『一人称単数』では、「牡蠣フライ」ではなく、
「「私とは何か」と「実在」の在り方を問う難問・アポリアと正面切って勝負する立場」、
つまり「語り手と語られたものとの相関関係」のその外部を問題にしているという先生のご論、
さらに『猫を棄てる』との重なりのご指摘、最高級の難易度だと考えます。
でありながら、最高級の魅力に満ちたご論、圧倒されるばかりです。

①「私」は、どういう「私」として登場し、なぜある女性から全否定されると、
蛇のうようよいる世界に一変してしまうのか、このわけのわからない話は、
〈機能としての語り手〉というこの機能なしには読めない。
「私」は、「向こう」が何度も選んだ、「私」の外部が「私」を選んだという自覚を
既に持っている者として登場している。既に自身を相対化する者として登場している。
(「白い子猫」を登場させる語り手と言っていいでしょうか?)
②非「私」とは、「わからない私」という了解のある「私」であって、
リアリズムに存在し得、「私」と共存できるもの。
通常の人間、坂本などはそこに安住してしまう。
それに対してアンチ「私」は、反「私」であり、「私」と闘う矛盾するもの。
しかも捉えられないもの。
「私」を超えるところから「私」を選んで「私」をつくっているもの。
「偶然」というところからこの「超越」に至るところが坂本にまだわかっていないと思います。
「矛盾・葛藤する運動体」という先生のご説明に、
「私とは何か」の問いの恐怖の正体かもしれないと思いました。
③リアリズムを一つの座標軸とすると、そのリアリズムを相対化する別の座標軸を必要とする。
違う言い方をすると、別の座標軸を用意することによって、リアリズムを相対化する。
リアリズムは、その主体が捉えた世界である以上、相対化されなければならない。
④『城の崎にて』の「自分」が、一枚の桑の葉の動きに、
自分の見えない風の自分にはわからない領域の力が働いている、と知っていた、
デジャブがあったという、田中先生と丸山さんのブログの遣り取りを思い出しました。
自分にはわからない識閾下の領域を自分が感じることと、
『一人称単数』の「私」が了解不能の《他者》を自分の内に感じるのとは、同じことですか。
⑤松の木に上って消えた白い子猫の役割と、悪意ある女性の役割は同じとは、
いかなることでしょうか。あの女性は因果を言い立てて「私」を全否定していたけれど、
因果関係を解体する子猫と同じとは、あの女性の言っていることは、
因果のようでいて因果ではないということでしょうか。
「私」にはあの女性の言っていることは全く身に覚えがありませんでした。
因果を超えているということなのでしょうか。

先生は何度か「意識によって無意識を突き出す」とおっしゃっいました。
無意識を突き出す、無意識の外部に立つ、地下二階におりていく・・
これらの言葉が坂本をぐるぐると引き回しております。
先生のおっしゃっているところまではまだまだ遠く、申し訳ありません。引き続き考えます。

坂本まゆみ


      ※        ※        ※


以下、私のお返事です。

坂本さん

20日の私の話をお聞きくださり、また、3月に公表になる村上春樹・あまんきみこに関する
紀要掲載予定の拙稿を
熟読したうえでのご意見、お考え、五点の問題を頂きました。
ありがとうございます。

これにお答えすることになりますが、実は先に古守さんにお答えしていたことと重なります。
これを見て、ご質問いただければよかったなと、今、これを書いているとき、思いました。

まず、「客観的現実」はないと言うとき、その言い方に関してです。
通常、リアリズムは我々人類に限らず、生きものの生の基盤であり、
この存在を前提にして我々の生命も現象しています。
これを転倒させていくところにポストモダンがあり、坂本さんはその立場発言されています。
それでもちろん、結構ですが、敢えて老婆心ながら、
リアリズムの領域も重要性も絶えず考えておきましょう。
ただし、近代小説を読む際は別です。
我々が読んでいる文学作品の文章が読書行為の対象となった瞬間、一回一回、異なってしまう、
「元の文章」に還元できない、そんな厄介な問題が起こります。
客観的には存在しないのです。
これが問題になるのは、それだけ〈近代小説〉を読むことそれ自体が
ラディカルな行為だからです。

①から⑤までの坂本さんのコメント、ご質問は、
村上春樹の小説『一人称単数』とエッセイ『猫を棄てる』に関する拙稿に関しての
ご意見ですが、坂本さんが小学生の時から抱え込まれていた、恐ろしい問題、
「私とは何か」を問う問題、
それは村上春樹の短編小説『一人称単数』がこれを問い詰めています。
「私」とは大自然・大宇宙の出来事の偶然の偶然を重ねて誕生した、
奇跡的に現象した存在、「雨粒の一滴」に交換できるような「一粒」と村上は考えています。
それはいかなることかと言えば、「私」とは、
「私」ならざる反「私」との合体した矛盾した存在と村上春樹は考えている、
とわたくしは捉えています。
通常、「私」は「私」といくら言い張っても、確かに「私」は「私」の内側から見る限り、
「私」は「私」ですが、他方、「私」は大宇宙の「雨粒の一滴」でしかない、のです。
春樹は『一人称単数』で、それを「向こう」に傍点を振って、
大宇宙である「向こうが私を選択する存在」と語っています。
こちらの意識・無意識を超えた、その外部である「向こう」が「私」を「私」とした、
「私」ならざる外部が「私」を「私」となした存在です。
この外部とは我々人類の意識・理解を超えた了解不能の存在、あってなきがごとく、
永劫の沈黙する《他者》です。
この反「私」を含んだ「私」を便宜的に拙稿では、二重鍵カッコにして『私』と呼んでいます。

  等式、『私』=「私」+反「私」
  (『私』とは「私」ならざるものを含む矛盾した存在である。)

したがって、我々近代人はホントウの「私」を求め、
「近代的自我」=「まことの我」を求めてきましたが、
これは近代(モダン)が切望した観念、イデアが強いたこと、これに近代人は150年以上、
ずっと悩んできたこの幻想から解放されるためには、この等式をまず受け止めることです。

坂本さんも、三田誠広の芥川賞『僕って何』も、これに悩んできたのですが、
この等式を受け止め、その等式の外部の『一人称単数』のあの女性、
『猫を棄てる』のあの「白い子猫」が『私』を壊す、これが必要なのです。
『私』を瓦解・倒壊する外部である〈向こう〉、すなわち、了解不能の《他者》を抱えて、
『私』という主体が働くのです。

こうしたことを踏まえ、ご質問、ご意見に対応します。

①はい、その通りです。鏡の中の自分の像が「おまえは誰だ」と『私』に問いかけるのは、
 『私』が『私』をいかに相対化しているかの現れです。
 『私』は自身を相対化し、追い詰められています。

②「偶然」の「偶然」、たまたま『私』は反「私」との合体として『私』となっています。
 それ自体が「超越」です。「超越」によってはじめて『私』は現象する。
 等式それ自体が実は、「超越」を含んでいますね。

③リアリズムの限界の問題ですね。
 等式自体がリアリズムで世界が捉えられないことを示しています。
 ②が納得できれば、③もそのまま、了解できます。

④『城の崎にて』の先行研究は、全て意識の領域で明るい、暗いを捉えています。
 いつも言う通り、〈メタプロット〉で読むこと、
 「自分」なる一人称の〈語り手〉は冒頭より、死ぬことを受け入れています。
 その意識を通して、自身の無意識を探り、そこから現実の出来事、
 生き物たちの生と死と向き合おうとしています。
 蜂の死の姿、鼠の死に際の苦しみ、イモリの偶然の死、
 それらそれぞれの生と死を見つめます。
 その際、木の葉の動きによって、自身の無意識を意識化します。
 「自分」には、死も捉えられないように、生も捉えられないことが見えています。
 その意味で生も死も同じ、ほとんど差がない、まさしく、坂本さんが捉えたとおりです。
 『一人称単数』の『私』も反「私」を抱え、捉えられないものを抱えて、
 『私』として現れています。

⑤『一人称単数』の五十代の女と『猫を棄てる』の「白い子猫」は同じ、機能、
 役割を課せられています。
 女は〈語り手〉の『私』には全く憶えのない出来事、因果関係を押し付けます。
 『私』には女の言い分は全く不当、にもかかわらず、これを受け入れます。
 無理やり押し付けてくる三年前の出来事、
 その因果関係は全く身に憶えのない不当な出来事と拒否しても、
 無意識には『私』は反「私」を抱え込んでいる矛盾から解放されなければならない
 課題を抱えています。
 等式を超えたいのです。『私』の無意識が 意識を越えて、『私』に襲い掛かります。
 女と白い子猫はそのためにそれぞれの作品に登場しています。



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