〈第三項〉論で読む近代小説  ◆田中実の文学講座◆

近代小説の読みに革命を起こす〈第三項〉論とは?
あなたの世界像が壊れます!

魯迅『故郷』の読み方

2021-01-20 21:32:27 | 日記
このブログの前回の記事でご案内したように、今週の土曜日、23日にオンライン講義をします。
そこでその講義の理解の助けとなるよう、『故郷』についてここで、
ランダムに思いつくまま、あれこれ並べておきます。
おまけに長いので、何日かに分けて、お読みください。

どうせ、今年の三月には、都留文科大学の紀要に『故郷』論が掲載されます。
ところで、これは、既存の『故郷』の読み方とはその根幹で違っています。
読みの原理が異なっているからです。しかし、原理にはここでは触れません。
言及するのは方法論までのレベルです。

通常、小説を読む場合、ストーリー、プロットを読んでいきます。
この際、私はそこで終わるのではなく、プロットをプロットたらしめる力学、
〈メタプロット〉を捉えることを提唱してきました。
と言ってもそれが実体的にあるわけではありません。
従って、読みには実体としての正解も不正解もありません。
読み手の中の現象を読み手自身が読むのです。

そもそも近年、私は森鷗外から村上春樹までの小説を読んでみて、
日本の近代小説を本流と神髄とに分けて読む必然を痛感しています。

私見では、本流の近代小説は近代的なリアリズムの本質を極めていこうとする領域にあります。
それは本当の自分、「近代的自我」=「まことの我」を探し続け、
人はどうあったらよいかを探る、自己発見とヒューマニティを探っていくのです。

これに対し、〈近代小説の神髄〉は目に見えない、リアリズムでは捉えられない、
その外部に立って世界を捉える時空にあります。
例えば、村上春樹の最新短編集『一人称単数』に収録されている『クリーム』に登場する老人は、
「ぼく」に「中心がいくつもあって、しかも外周を持たない円」のことを
思い浮かべろと言います。
そんなものはこの世にはありはしません。
そのあり得ない不条理・不合理と対決し、そこからさらに考えることを
この短編小説は求めているのです。
こうした小説と、私は全力で格闘しようと思っています。

例えば、《神》さまを究極的に信仰する人は、その信仰の《絶対》に生きながら、
同時にこれを相対化することは可能か。
あるいは人は相手からは語れない、にもかかわらず、三人称客観小説が成立するのは何故か、
などなど、こうした難問と対決することが「人生のいちばん大事なエッセンス」、
「クリーム」(とびっきり最良のもの)、村上春樹の『クリーム』はそう語りかけます。

思うに、魯迅の『故郷』こそ、、実は〈近代小説の神髄〉を体現した最良の作品、
「クリーム」なのです。

世界中のコロナ感染大爆発後、まだ生き残っている人類はこの危機を、
生きる意味と価値を問い直すチャンスとすることが肝要と考えます。


『故郷』を読む場合、どうか。

『故郷』は多年の間、日中の国語教科書に採用され続けている
稀有の小説です。
その有名な末尾の以下の文章が鍵です。


 「思うに希望とは、もともとあるものともいえぬし、ないものともいえない。
 それは地上の道のようなものである。もともと地上には道はない。
 歩く人が多くなれば、それが道になるのだ。」

 この有名な文章が難所、通常理解されていることを全く裏切っています。

実は、『故郷』の作品の評価は一定していません。
魯迅研究者の藤井省三氏は、中華民国、その後の中華人民共和国の両時期を通じて、
「国家建設を語るイデオロギー小説であったのだ。」と、
『故郷』を偉大な小説と評価していました。
これが検討されないまま、今日に引き継がれています。
また、日本ではそれとは正反対に、
語り手の「私」は「自己認識が決定的に欠け」て「軽薄で傲慢」、
「無責任な「青白きインテリ」」と裁断し、
全面的に否定する国語教育界の宇佐見寛氏の論もあります。

にもかかわらず、私が見た限りに過ぎませんが、
互いの論争、あるいは対話が基本的にありません。


中国、日本に限らず、『故郷』の読み手たちはこぞって、
これまで、一人称の〈語り手〉の「私」のまなざしで、これを読み終えています。
これでは『故郷』の読みの醍醐味は生じません。
ここに出てくる〈語り手〉の「私」とは、
常に「私」を「私」と語る〈語り手を超えるもの〉=〈機能としての語り手〉によって、
語られた対象でしかないのです。
読者共同体は、日中ともそろって生身の「私」の意識、そのまなざし、
遠近法の領域しか読んでいません。

ここには「私」とともに、閏土、楊おばさん、
それぞれのまなざしがその〈メタプロット〉にははっきりと語られていて、
それらが互いにすれ違って、交差しているのです。
つまり、この一人称小説の出来事とは全て、「私」によって語られた出来事、
物語として語られていながら、〈語り手を超えるもの〉、
〈機能としての語り手〉が全体を構造化しているのです。

翻訳者竹内好も、〈語り手〉の「私」のまなざしでしか読んでいません。

例えば、「私」は、閏土の五番目の子供、水生を見た時、
「これぞまさしく二十年前の閏土であった」と数字を間違えます。
閏土と出会ったのは三十年前です。
中国でも日本でも、これは問題にされてきませんでした。

翻訳者竹内好はこれを「これぞまさしく三十年前の閏土であった」と
数字上機械的に正しく書き換え、
「いずれにしろ、概数だから、二十年でもまちがいとはいえない。」と注を付けています。
ところが、お話は二十年前と三十年前とでは、「私」が十歳か二十歳か、子供と大人の違い、
どちらでも構わないはずはありません。
「私」はこうした簡単な数字も間違える人物、
人間関係がうまく取れない人物でなければならないのです。

何故か、「私」の内面は深く挫折して、未熟さを生きながら、しかも稀代の認識者です。
これは後述します。

例えば「私」は、筋向いに住んでいる「豆腐屋小町と呼ばれていた」
美貌で鳴らしていた楊おばさんのことを全く見忘れていて、
その理由を「たぶん年齢のせいだろう」と全く見当違いのことを言っています。
美貌だった楊おばさんは、「私」が見忘れたために深く傷ついています。
「私」は女心を深く傷つけていることを全く理解していません。
だから、「私」に対して強烈な悪態をつくのです。
それでなくとも、もともと、彼女の内面も「鉄の部屋」の壁によって、空洞化しています。
「私」は日常では女心も解さない、迂闊者なのです。


〈語り手〉の「私」は現在四十歳ぐらい、寂寞に覆われています。
二十年前に故郷を出て、今回、我が家の処分のために帰郷しました。
「私」は十歳ぐらいの時、海辺の農民の子供閏土に出会います。

まだその時は社会の矛盾など知らない、そうしたことの全く分からない子供で、
当時は銀の首飾りをした閏土を夢のような小英雄と思いこみ、
その閏土と「一つ心でいたい」と思って、今日まで生きてきました。
この時代、中国の大都会では五・四運動という文化運動、革命の嵐が吹いていて、
「私」は時代に翻弄され、挫折を強いられていた、
それが寂寞を「私」に抱えさせる所以でした。

三十年前の閏土との変貌ぶりは「私」の予想通りであるはずなのに、
あらためて「私」がその変貌に衝撃を受けるのは、
「私」が彼と「一つ心」でいたい思いでい続け、
銀の首飾りの小英雄のイメージを、今も鮮やかにくっきりと持ち続けているためです。

この三十年後の閏土は、視点人物の「私」からは、デクノボーとしか見えません。
その内面は「私」には全く見えていません。
例えば、知識人の「私」は、親しくなった甥の宏児と閏土の五番目の子供水生とが、
今は心が通い合っているようだが、
大人になって自分たちのようにならないようにと願いますが、
それは農民の閏土も同様に考えていたことでした。
だから、「私」が故郷を発つ日、再び訪れた閏土は、水生を連れて来ず、
六番目の女の子を連れて来るのです。
宏児と水生が自分達のように別れの辛さを味わわないように、
という閏土の配慮、気遣いです。
そうしたことは、「私」には一切見えていません。
寂寞に包まれた「私」にはそうした日常の出来事がよくわかっていないのです。

その一方で、「私」は観念を見つめる力、認識力は異常なほど冴えています。
先祖を祭る「香炉や燭台」を欲しがる閏土は相変わらずの「偶像崇拝」者で、
これを「私」は批判的なまなざしで見ますが、そうした自分を顧みて、
自らの近代的進歩史観も「偶像」に過ぎない、
自身も自身の観念を信じる「偶像崇拝」者でしかないことに思い至るのです。
そこで、ようやく、末尾の「希望」の論理、自身が信じていない、
絶望している「希望」が登場します。
鍵は内にあって、扉は外から開くのです。

語り手の「私」は、稀代の認識者でありながら、同時に日常の出来事には疎い、
これが生身の、生きた人間の姿です。


冒頭の場面から、末尾の場面への大転換、紺碧の空に金色の月を背景にした閏土はもう登場せず、
寂寞に包まれていた「私」はその主体を解体させ、自身の外部にそのまなざしが向かい、
絶望の「希望」が、「私」の外部に広がります。

三月、都留文科大の紀要をご覧ください。


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