丸山さん、
丸山さんのコメントは私にとって、前回の張さん同様、有難いものです。基本的に丸山さんの御理解を私も支持します。〈語り手〉は現在、事故から三年以上経っていて、これが死の危険を予告された療養期間を実況中継していますから、〈語りの現在〉はしっかり押さえてください。〈機能としての語り手〉ではなく。しかし、そこまではまだ理解しやすいですよね。
ここで、少し、解り難いことを敢て踏み込んで申し上げます。
もう一度言いますと、『城の崎にて』の〈語りの現在〉は事故から三年以上経って、致命傷になる憂いのない時期、そこから事故後すぐの時期の但馬の城崎温泉での三週間のことを実況中継している、すなわち、まだ致命傷になる可能性のある時のことを語るところに、この稀有の〈近代小説〉の一極北が誕生する秘鑰が隠れています。
この〈語り手〉「自分」は通常はあり得ない、生と死を等価に捉える『范の犯罪』の裁判官のまなざしを抱えて語っていますから、生と死の相関における意識と識閾下との相関を総体として捉えやすい、見えやすい位置にいることになります。それを可能にするのは意識と無意識の双方の外部に立つ位相であり、これを可能にした位置を手に入れていたのが〈語りの現在〉です。
謂わば、拙稿「〈近代小説〉の神髄は不条理、概念としての〈第三項〉がこれを拓く」の図で言えば、生と死を等価とみなして、自身の意識・無意識の生の領域の外部、「地下二階」にある〈語り手〉が自身の「地上一・二階」の意識と「地下一階」の無意識の双方を相対化を捉えさせているのです。ここから「地下二階」の次元が現れます。
丸山さんのコメントは私にとって、前回の張さん同様、有難いものです。基本的に丸山さんの御理解を私も支持します。〈語り手〉は現在、事故から三年以上経っていて、これが死の危険を予告された療養期間を実況中継していますから、〈語りの現在〉はしっかり押さえてください。〈機能としての語り手〉ではなく。しかし、そこまではまだ理解しやすいですよね。
ここで、少し、解り難いことを敢て踏み込んで申し上げます。
もう一度言いますと、『城の崎にて』の〈語りの現在〉は事故から三年以上経って、致命傷になる憂いのない時期、そこから事故後すぐの時期の但馬の城崎温泉での三週間のことを実況中継している、すなわち、まだ致命傷になる可能性のある時のことを語るところに、この稀有の〈近代小説〉の一極北が誕生する秘鑰が隠れています。
この〈語り手〉「自分」は通常はあり得ない、生と死を等価に捉える『范の犯罪』の裁判官のまなざしを抱えて語っていますから、生と死の相関における意識と識閾下との相関を総体として捉えやすい、見えやすい位置にいることになります。それを可能にするのは意識と無意識の双方の外部に立つ位相であり、これを可能にした位置を手に入れていたのが〈語りの現在〉です。
謂わば、拙稿「〈近代小説〉の神髄は不条理、概念としての〈第三項〉がこれを拓く」の図で言えば、生と死を等価とみなして、自身の意識・無意識の生の領域の外部、「地下二階」にある〈語り手〉が自身の「地上一・二階」の意識と「地下一階」の無意識の双方を相対化を捉えさせているのです。ここから「地下二階」の次元が現れます。