〈第三項〉論で読む近代小説  ◆田中実の文学講座◆

近代小説の読みに革命を起こす〈第三項〉論とは?
あなたの世界像が壊れます!

童話『あるひあるとき』はあまんさんの「遺書」(更新)

2020-09-05 09:06:29 | 日記
前回の記事への杵鞭さんのコメント、
お返事したように、たいそう嬉しく思いました。
杵鞭さんのお陰で、
あまんさんの童話の、あのきわめて分かりやすく、柔らか、穏やかな言葉たち、
それが実は逆、極めて分かりにくい、ただならぬ表現の飛躍(ひやく)、
その飛躍があまんきみこ童話の読みの秘密を解く、秘鑰(ひやく)であったこと、
『あるひあるとき』という童話は、あまんきみこさんの日常的現実を貫き、
これを超えて語る過激な表現方法による「遺書」であったことに触れることが出来ました。
その過激な表現方法とはパラドックスです。すなわち、
この童話には老婆である「わたし」の70余年の日常的現実の重さ、
その重要性を敢えて何も書かない、空白の表現で逆説的にこれを語り、
且つ、それによって、人と人、一個の生命と一個の生命のつながりの根源性を描き出している、
これに一言触れることができた、よかったと思いました。
しかし、これは依然として、分かりにくいことかなと思われます。

あまんきみこの童話は柔らかく、あたたかく、ほのぼのしているように見えて、
その実、極めて過激、いや、ラディカル、根源的、もっと言えば、生の原理に触れ、
これを童話というお話にしていこうとしている、わたくしにはそう思われます。
先日書き上げた『白いぼうし』論でもその一端を論じましたが、
多分、わたくし田中の書きぶりが拙いために、これが分かりにくかったここと存じます。
文学空間には意識、無意識の外部の領域を作中人物の世界は抱えているのです。
これをリアリズムは峻拒することで、成立します。
例えば『ヒロシマの歌』はリアリズムの成果を遺憾なく発揮して見事、
あまんさんの童話はここを空白にして、飛躍するのです。

村上春樹の比喩で言うと、人間の生の領域を一軒の家にたとえ、
一階はリビング、二階は寝室、地下一階は無意識の領域とし、
その地下一階のさらにその下に、地下二階という虚空の領域を設定しています。
これはもう永劫の了解不能の領域、これを抱え込んで人がある、
村上文学の主要作中人物たちはそう創作されているというのが村上春樹自身の説明ですが、
これは村上春樹に限らないこと、次回にも触れたいと思います。

ここではあまんさんのことです。
村上の比喩を借りると、あまんきみこの『あるひあるとき』の
〈語り手〉の老婆である「わたし」は、
意識の下の無意識のさらにその外部の虚空=「void」、了解不能の領域を抱え込んで、
意識・無意識の日常的現実の領域を相対化し、
「地下二階」を生の拠点にしていると筆者は考えています。


この童話はお話の末尾、幼女からいきなり老婆になります。
その間の70年、あるいは80年余りの海あり、山ありの歳月、
その日常的現実はすべてここには書かれていません。空白です。
五歳ほどの幼女の時の自分と、こけしのハッコちゃんとがつながっていることだけが
問題化されてます。
引き揚げの直前、自分とつながっているハッコちゃんがストーブで燃やされたことで、
「わたし」の心も燃やされ、その衝撃の大きさが「わたし」の急所、芯となっているのです。
その後に起こる、人生の現実の重大なことを括弧に入れる観方をするのです。
例えば、結婚とか、出産とか、近親者の死亡とか、
人生の重大事を相対化し、メタレベルで捉えるのです。
それはそのまなざしを所有しているから可能なことなのです。
現実のもろもろの出来事が結局は、前に言いましたように、
「カルネアデスの板」を抱えている、したがって、相手を殺して自分が生きる、
これを原理として抱えている、これを超えるために、現実の重さを問題にしながら、
パラドックスによって、これを空白にし、それを超える領域を示したのです。
それが個という生命と個という生命のつながりを根源、原理とする立場です。


前回の記事でも紹介した、朝日新聞の8月15日のあまんきみこの聞き書きの記事には、
「戦争の根本は「相手に殺される前に殺す」ということ。戦争だけはやめてね。
若い方、どうか頑張って。私の遺書です。」とあります。
あまんきみこがこう語る時、
これは保守とか革新とか、右翼とか左翼とかなどの思想の立場に立って、
戦争反対を語っているのではありません。
『あるひあるとき』は戦争反対のイデオロギーの作品ではないのです。
イデオロギー自体は現実の要請から作り出されるものですが、これはその外から語られています。
あえて日々の現実自体を括弧に入れ、棚上げにすることによって、
この作品が仕組まれていると、筆者には見えます。

もう一度言います。
現実の生の場は、その極限に相手のために自分を殺すか、
自分のために相手を殺すか、が隠れています。
ここにはこのモラルを超えて相手と自分を一つにする、そこに生命の原型を示し、
現実のどんなモラルを持ち出しても、その論理を斥け、戦争反対をやわらかくしかも、
断固語っています。

自分とか、相手とかの峻別のない極限の場、つながりという領域に
あまんさんは読者を誘(いざな)おうとしているのです。
 
通常、人は地下一階までの領域で生きているのに、
何故地下二階を問題にしなければならないのか、
次回はこの問題と『高瀬舟』に戻り、近代小説の本流と神髄について考えましょう。

あまんさんの言いたいこと

2020-09-02 09:54:58 | 日記
前回の記事で、あまんきみこさんの新刊の童話、『あるひあるとき』について書きましたが、
今回はその作品の作者あまんさんのことです。

先月中旬、この作品の刊行にあたってのインタビュー記事が複数の新聞に掲載されました。
例えば、ネットで見た「京都新聞」の記事の末尾には、
「子どもだから『罪がない』とは言えないと思います。
知らないから無邪気で人を傷つける。だから、戦前に戻らないでほしい。
人間の英知をもって戦後を続けてほしい」
という言葉で締めくくられています。
あまんさん自身は旧満州に生まれ、15歳で日本に引き揚げるまで、そこで育ったにもかかわらず、
満州国が日本の傀儡国家であり、中国の人を差別し、
犠牲にしていたことを当時全く知らなかったそうです。
そうしたことは後年国会図書館に通って調べて分かったということで、
これはそうした経験から発せられた、
「戦前に戻らないでほしい」という戦争反対を訴える重い言葉です。
そして、この「知らないから無邪気で人を傷つける」ということは、
小学校教材になっている『おにたのぼうし』でも、『白いぼうし』でも、
通奏低音のように響いています。

『おにたのぼうし』では、鬼の子のおにたが想いを寄せる女の子は、
節分の日、病気のお母さんのために、厄払いの豆まきをしたいのですが、
貧しくて家には豆がありません。
そこでおにたは女の子のために黒い豆に変身します。
女の子はそれを全く知らないまま、「おにはそと」と投げ捨てるのです。

『白いぼうし』はチョウが無邪気な幼稚園児たけお君に捕まえられて、
白いぼうしの中に閉じ込められていました。
たけお君は本物のチョウを捕まえて英雄気分、お母さんに褒めてもらおうと思っています。
末尾、そこから逃げ延びたチョウは家族らに迎えられられて、
「よかったね。」「よかったよ。」と喜び合います。

これらを読む際、肝心なことは、語られた出来事を読むだけでなく、
語られた出来事を語るナレーター、〈語り手〉との相関で読むことです。
そうすると、『おにたのぼうし』なら、知らぬこととはいえ、
女の子がおにたに如何に残酷だったか、
『白いぼうし』なら、たけお君がチョウに如何に無邪気に残酷だったか、
見えるように語られています。


また、先のインタビューの「朝日新聞」に掲載された記事は、
「戦争の根本は「相手に殺される前に殺す」ということ。戦争だけはやめてね。
若い方、どうか頑張って。私の遺言です。」
という言葉で締めくくられています。
89歳になられたあまんさんが「遺言」とまで言っているこの願いが、
『あるひあるとき』の童話には込められていることが痛いほど伝わりますが、
それは語られた出来事の筋(ストーリー・プロット)を読むだけだと不十分です。
筋を筋としている必然性を読む、私はこれを〈メタプロット〉と呼んでいますが、
これを読むことです。

〈語り手〉の「わたし」は、幼い時、こけしのハッコちゃんと二人で一人の仲、
その象徴的な一行が「わたしがかぜをひくとハッコちゃんもかぜをひきました。」です。
「わたし」が「わたし」であるのはハッコちゃんをなでなでして汚してきたからなのです。
これを読み落とさないようにしましょう。
そのハッコちゃんが日本に連れて帰れないため燃やされることになった時、
何度もハッコちゃんの頭をなでますが、その後のことを何故か、憶えていません。
だた炎の音だけがよみがえります。

ここが〈語り〉の妙、その後あとすぐ、場面は現在に移ります。
その間70年余りの「わたし」の出来事は一切、何も語られないのです。
その後、当然ながら、「わたし」にも、
結婚とか、出産とか、近親者の死亡とか、目に見える日常のもろもろの重要で
確かな現実の出来事が起こっていたはずです。
これらはここでは一切取りあげられません。
この空白を組み込んで読む、これをこの作品の筋(ストーリー・プロット)と捉えると、
この作品の〈ことばの仕組み〉が見えてきます。
これがあまんさんにとって、「遺書」としての童話である所以は、
そうしたもろもろの現実の出来事のレベルのことを語らないことで、
空白にすることで、なでなでしてきたハッコちゃんを手放し、
焼かざるを得なかったことの意味を伝え、訴えようとしているのです。

ハッコちゃんは「わたし」の中に強く生き続ているだけでなく、
ハッコちゃんが「わたし」なのです。
このことを価値の拠点にして、この戦争拒否のお話が語られています。

ハッコちゃんが燃やされた話の後、現実の事実のもろもろの出来事を飛び越え、
近所の小さい女の子ユリちゃんがこけしと一緒に眠っている冒頭の場面に戻ります。
今もハッコちゃんが強く、強く、「わたし」の中に生きているように、
これをユリちゃんとこけしに重ねて、命がつながっていくことを語ろうとしています。
末尾は「メンコ メンコト ナデラレテ コケシハ マルコクナッタノサ」、
こけしはなでられなでられ可愛がられてて丸くなった、という言葉で終わっています。

それは単に生きることの大切さを言うのでなく、
なでなでして慈しみ、つながって生きていくことに生命の価値の源泉を、
価値を、意味を見ているのです。


人々が戦争を起こすとき、自分たちを守るため、正しさのため、神様のため、
と大義名分を立てます。
日々生活にはそうしたことが付きまとって、現実があります。
これを極限化したのが、海の中、一枚の板に二人が掴まった「カルネアデスの板」の寓話です。
自分のために相手を殺すか、相手のために自分を殺すか、です。
これが現実生活の日常の底に隠れているのです。

あまんさんなら、お母さんの死、翌年結婚、出産、
そうした現実の大変大事な出来事が起こります。
その生活の底には「カルネアデスの板」が隠れています。
あまんさんはこの難問、アポリアを空白にすることで、一旦、括弧に入れる、
それによってその奥を見る、そこに人と人との、なでなで、
つながりに生命の根源を見ているのです。
そこにはどちらを殺すかの相手と自分の区別はありません。
近代的自我や自己なる観念、イデアがないのです。
ハッコちゃんは汚れて、「わたし」になっています。

自我が要求する神様の正義より、命の繋がりが根源なのです。
あまん文学の神髄がここにあります。

あまんきみこの『あるひあるとき』を読んで(更新)

2020-09-01 10:22:46 | 日記
この記事は、昨日一旦アップした記事を書き改めたものです。

あまんきみこの最新作童話『あのひあのとき』はあまんきみこのこれまで以上の傑作、
「戦争と平和」の問題でもありながら、生命の源泉の在り方、命の尊さが祈りの中で、語られていると感じました。
これはいのちのつながりのお話、これをあまんきみこさんは人類全体に送る祈りの言葉として、
ひとつの詩として、このお話に結晶化されていると感じました。

冒頭、近所の子供、小さいユリちゃんは大事にしているこけしに子守唄を語りきかせながら、
自分で眠ってしまいます。
次に「わたし」はその様子を見ていて、ふいに自分が大連にいた幼いころ、
こけしのハッコちゃんに子守歌を聞かせていたことを思い出します。
当時、幼い「わたし」は日本に出張に行って戻ったお父さんから、
きれいな市松人形や西洋人形とともに、こけしのハッコちゃんをお土産にもらいもらいます。
このこけしのハッコちゃんを特別にかわいがったため、
こけしはよごれていました。
「わたしがかぜをひくとハッコちゃんもかぜをひ」く、
「わたし」とハッコちゃんは二人で一人です。
当時は戦争中でしたから、防空壕でも「わたし」はハッコちゃんを手放しません。
終戦になり、それから帰国するまでの二年間、父母は家ものものを売って暮らしました。
市松人形や西洋人形は売れても、手垢で汚れているハッコちゃんは売れません。
そのため、「わたし」はハッコちゃんと
「よかったね。」「よかったよ。」のスキンシップのなでなでが出来ました。
しかし、引き揚げの日が決まった時、ハッコちゃんは連れて帰れません。
ストーブにくべられます。
「わたし」にはこのときの「ごおっとほのおの音」だけがよみがえり、
あとはなぜか覚えていません。
その後お話は冒頭の時間に戻り、ちいさなユリちゃんに毛布をかけてあげます。
末尾は「メンコ メンコト コケシハ マルコクナッタノサ」で終わります。

敗戦から75年の現在、「わたし」は年老いています。
「わたし」は日本に戻り、その後の現実生活、さまざまな海山を超える出来事があった、
しかし、語り手の「わたし」はそれらを一切語っていません。
「わたし」は「わたし」自身の生とは何だったか、
その総体とでもいうべき人の命の在り方を考えざるを得ません。
「わたし」はハッコちゃんを失って今があり、
「わたし」がいかに内奥に一種の空洞を抱えているか、
その大きさを感じずにはいられないのです。
「わたし」は今、ちいさいユリちゃんにハッコちゃんを失った自身の生を重ね、
ユリちゃんにはそうあってほしくないと強く願っています。
ハッコちゃんの命を殺した戦争を繰り返さない、
いのちを繋ぐ、ここに祈りの言葉になっています。