〈第三項〉論で読む近代小説  ◆田中実の文学講座◆

近代小説の読みに革命を起こす〈第三項〉論とは?
あなたの世界像が壊れます!

更新・『高瀬舟』は「読むこと」の問題が満載(3)

2020-10-01 16:54:17 | 日記
前回の記事の末尾、以下のように書きました。

  いわば、この物語は語られている登場人物たち、
  すなわち、奉行・喜助、庄兵衛、ナレーター、この四つのまなざし、
  四つの時空のコンテクストがすれ違いながら交差していたのです・・・。
  
ここで誤解のないように言っておくと、奉行・喜助、庄兵衛の三者のまなざしと
ナレーターのまなざしは同一のレベルにはありません。
ナレーターすなわち〈語り手〉は、奉行、庄兵衛、喜助、三者のメタレベル、
上位の位相に立ち、物語を語っているのです。
この〈語り手〉は〈聴き手〉である読者を物語の出来事の深み、深層に誘い出そうとしています。
それはこの〈語りの仕組み〉を解き明かしていくことを我々読者に強いるのです。
そう、〈近代小説〉の神髄にある『高瀬舟』は読者の文化を相対化させ、
思いもしないところに立たせることになるのです。
そこには強い力学が働きます。
  
今回は、この作中のもろもろの出来事に対して、それを語っていく〈語り手〉の
パースペクティブがいなかるものか、を見ていきましょう。

第一段落では、高瀬舟に乗せられた罪人には本人の親戚の者の同乗が許され、
一晩中、身の上の悲惨な繰り言を護送の役人たちは聴かされて思わず心動かされ、
不覚の涙を禁じ得ない、そのために高瀬舟護送の仕事は不快な職務として
嫌われていたことが語られます。
すなわち、奉行の取り調べは実は、「表向き」のことだったのです。
罪人当人の秘められた心の内は奉行所では明かされない、
「役人の夢にもうかがふことの出来ぬ境遇」に罪人たちはあることを
〈語り手〉は冒頭に明らかにしています。

そこで当然、第二段落以降は、奉行所では明かされなかった喜助の心の内が
庄兵衛に明かされると読者は期待します。
ところが、喜助が庄兵衛に語ったことは、繰り言や恨み言ではなく、
「好く条理が立つてゐる」、
「町奉行所で調べられる其度毎に、注意に注意を加へて浚つて見させられた」ものでした。
つまり、喜助が事件を語る言葉と奉行の言葉が一つになった「表向き」と同じものだったのです。
これでは第一段落で語られたことと相反します。
しかし、ここにこそ〈語り手〉の意図が隠れているのです。
こうしたことを〈語り手〉はいかなるパースペクティブで語って、
どこに行こうとしているのでしょうか。

『高瀬舟』は奥が深い、いや深すぎると言わざるを得ません・・・。

 
この物語の護送の役人羽田庄兵衛の眼前にいる弟殺しの罪人喜助は、
悲惨な心境どころか、その逆、曇りなく穏やかな境地にあって目は微かに輝いています。
庄兵衛はこの罪人の心境などを聴き、財産に関する観念の自分との相違、格の違いを思い知らされて感服し、
改めて見直すと、これまで見たこともない、仏のごとくその頭から毫光がさすかのように見えます。
そこで、弟殺しをしてなおこのたたずまいの男を不思議に思い、
庄兵衛は改めて事件のいきさつを聴くことになります。案の定、
奉行の「心得違い」という判決とは、別のロジック、安楽死による殺人という結論に至り、
奉行との間に若干の溝ができるのです。

もう少し詳しく見てみましょう。
奉行の半年にわたる丁寧で緻密な取り調べの結果の判決では、
喜助の弟殺しは誤って殺してしまった「心得違い」でした。
しかし、庄兵衛が喜助本人から直接、殺しの情況を聞いて見ると、
前回見たようにそれは安楽死させたとしか思えません。
そこで庄兵衛は奉行の判決に「これが果して弟殺しと云ふものだらうか」と疑問が湧き、
〈語り手〉もそれに同調して「そこに疑が生じて、どうしても解けぬのである。」と語ります。
しかも〈語り手〉は、奉行の権威を日本語ではなく「オオトリテェ」というフランス語で語り、
その権威を相対化させる言い方をしています。
最後の一行も、
「次第に更けて行く朧月夜に、沈黙の二人を載せた高瀬舟は、黒い水面をすべつて行つた。」と、
いかにも庄兵衛の疑問に加担し、共有するように語っています。

ところが他方では、この庄兵衛を〈語り手〉は相対化しているのです。
奉行がもしこの庄兵衛の疑問を聴けば、それが誤りであることを
奉行ならたやすく指摘出来ます。
喜助が弟の喉笛に刺さった剃刀を抜く時、
思わず刃が外を向いて今まで切れていなかったところが切れていました。
弟の致命傷はこれ、喜助はそう証言しています。
喜助の弟殺しは安楽死ではなく、殺す意思はなかったのです。
これを疑うことはできません。
何故なら〈語り手〉は喜助の説明を「条理が立ちすぎていると言つても好い位である。」
と語って、その喜助の証言の正当性を保証しています。
喜助の意識は奉行のまなざしの枠内にあり、奉行の判決に心底納得し、
心穏やかに自らの結果、引き抜いた時、剃刀の刃が外向きになっていて
自分が弟に致命傷を負わせた「心得違い」を受け入れています。

このように〈語り手〉は奉行の取り調べを相対化する庄兵衛のまなざしに
同調して語り終えていながら、且つ、そのまなざしをさらに相対化して語っていたのです。
つまり、庄兵衛のまなざしも奉行のまなざしも双方とも相対化し、
両者を謂わばフィフティーフィフティーに語り、
それを超える領域に読者を誘い込むのが〈語り手〉だったのです。
つまり、こうです。
両者はしょせん、江戸幕藩体制下、安定した寛政の頃、
白河楽翁候松平定信の時代の官僚機構の思考や感受性のその枠内でのロジックとして
その論理の因果で事態を捉えていたのです。
その背景にこの時代の権威があり、これを〈語り手〉は「オオトリテェ」と呼んで相対化し、
より普遍的なまなざしでこれを捉えようとするのです。

彼らのまなざしで捉えられない喜助の意識のその底、無意識の闇の領域が問題なのです。
庄兵衛にも奉行にも見えない、
もちろん喜助自身にも見えない、
喜助の意識の底、識閾下である内奥に何が起こっているかを、
大正時代、二十世紀の現代の読者に向かって語っているのです。
奉行から遠島になる罪人に至るまで、
時代が強いる知性・感性の思考の制度性の枠組みを超えるもの、これを語らんとしたのです。


ここで一旦、休憩を入れますね。分かりにくかったでしょう。
もう少しで終わります。