〈第三項〉論で読む近代小説  ◆田中実の文学講座◆

近代小説の読みに革命を起こす〈第三項〉論とは?
あなたの世界像が壊れます!

『高瀬舟』は読むことの問題が満載(4)

2020-10-03 12:24:15 | 日記
前回、分かりくいことを書きました。
何故なら、小説の中の物語は第一段落から始まるのでなく、第二段落から始まり、
第一段落はそれを相対化するための極めて戦略的な付置だった、
これを読み取ることの困難さを言う必要があったためです。
第一段落で語られていることは、高瀬舟で役人が聴き取ることが罪人の恨み言、
謂わば本音だということでした。
これは「表向き」の奉行所では話されないことを〈語り手〉は説明しています。
これを第一段落で〈語り手〉はまず〈聴き手〉にはっきりと伝えておいて、
第二段落、「いつの頃であったか。」とこの作品の物語を語り始めるのです。

庄兵衛が喜助から聴いたことは、喜助に金銭に関する不満の類が一切ないことです。
これは庄兵衛の日常では考えらないことで、敬服する思いで喜助の話をさらに聴くと、
奉行の取り調べ通りのことを喜助は語ります。
これを〈語り手〉は喜助に直接話法で語らせています。
実にここが〈語り手〉の巧妙なところ、喜助の話は通常の罪人と違って、
庄兵衛に語る〈裏向き〉であるはずのことが「表向き」のことと変わりがないのです。

これは第一段落の記述を裏切っています。
しかし、通常読者はそうは考えません。
わたくしも以前はそう考えていませんでした。
庄兵衛が聴き取って、解釈している弟殺しの事件の真相、安楽死が喜助の本音であろう、
これは単に「表向き」のことではない、〈裏向き〉の喜助の真意と捉えて、
不都合なく読み進めていくでしょう。

ところが、「表向き」も〈裏向き〉もない、その奥があったのです。
奉行の捉える過失致死という「表向き」も、庄兵衛の捉える安楽死という〈裏向き〉も、
いずれも時代の枠内で捉えたものに過ぎません。
しかし、喜助としては、剃刀を抜いたのは最愛の弟を苦しみから救いたい、
弟の願いに応えたいという一心からのことで、その弟を失った今、
過失致死だろうが安楽死だろうが、そんなことは意識には上りません。
意識ではお奉行に従うのみです。

喜助の顔が晴れやかで、その目が輝いているのは、肉体を失った弟の魂が喜助の内に宿り、
今や身一つになって生きているからです。
このことこそ喜助にとって全て、
この境地は庄兵衛にも奉行にも到底理解できないことなのです。

〈語り手〉が真に読者に伝えたいのはこのこと、
〈語り手〉から見れば、奉行と庄兵衛はフィフティーフィフティー、
彼らのメタレベルに立ち、奉行の権威も庄兵衛の足るを知るという人生の教訓も相対化し、
時代を越えて生き続ける真の価値を語ろうとしている、これが結論です。
〈語り手〉が語ろうとしていることは作中人物たちの思考や感性による意識、
時代がもたらす、ものの捉え方、ロジックを越えて、
弟殺しの喜助の意識の底、無意識の持つ普遍性へ向かうことだったのです。

ここに『高瀬舟』の〈近代小説〉の神髄たるゆえんがあります。

では、喜助が何故弟と身一つで生きることに喜びを感じるのか、
それについては次回の記事に書いて、終わりにしたいと思います。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする