7月4日の文学講座で、お話したことを基に、文章にしましたので、以下に掲載します。
なお、この記事は7月13日に掲載したものを本日(7月15日)書き改めましたことをお断わりします。
三つの作品論の傍ら―〈第三項〉という世界観認識の転換―
現在の超情報化社会における科学技術の進歩は、驚くほど文字通り急激です。AI(人工知能)を搭載した兵器による戦闘やサイバー攻撃、遺伝子操作した生命を誕生させる等、かつて人類に幸福をもたらす希望の象徴だった科学技術の発達は今や、一方で確実に人類に破滅の恐怖を与えています。思想界では、1970年代末「ポストモダン」が登場して文化的多元主義、文化的相対主義が広がり、その後「ポスト真実」と呼ばれたりと、多種多様な思想が氾濫する昏迷の中にあります。その出口が見えないなか、2019年末、唐突に現れたコロナウイルスは瞬く間に世界中に広がり、今も膨大な感染者と死亡者を産み出し続けています。平穏な日常が壊れ、先の見えない不安のなか、人類の未来は絶滅の危機と隣り合わせ、思想界の昏迷もいっそう加速しています。
我々の文明はどこに向かって行くのか、そもそも人間とは何であって、我々人間の生命とはいかなる存在なのか、それに立ち向かった一つが大ベストセラー、イスラエルの歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリ氏の『サピエンス全史』(河出書房新社)です。これは世界60の言語に翻訳されたと聞いています。ハラリ氏は何故、数多の原始人の中から弱々しいホモ・サピエンスだけが地球上に生き残り、文明を発展させ、今日に至っているのか、その理由を実体のない虚構を想像する力によって巨大な人間集団を作り出したからだと説きます。人類は「貨幣」「帝国」「宗教」の三つのフィクションを造り出し、その巨大な虚構のイメージに支配されてきたというのです。
これらは人間が作り出したイデオロギーに過ぎないにもかかわらず、なかでも「宗教」という虚構は自身の依拠する絶対の《神》とこれと対立し、否定するもう一つの別の絶対の《神》との戦闘を繰り返し引き起こし続けてきました。その底には、極限のニヒリズム、虚無が隠れており、これを掘り起こして手懐(てなず)け、超えることができるかどうかが人類の存亡の鍵、文明の未来を決する一つでしょう。
ならばここからは我々の問題、ひとまず、ホモ・サピエンスが人間として登場する以前、キリスト教の場合、『新約聖書』の「ヨハネによる福音書」の冒頭、「初めに言(ことば)があった。言(ことば)は神とともにあった。」とあるその「言(ことば)」以前の時空を措定してみましょう。「初めに言(ことば)があった。言(ことば)は神とともにあった。」というフィクションより以前を一旦措定すると、《神》も、これに対抗する《科学》も、全てのイデオロギーを相対化することが可能になります。そうすると次のことが見えてきます。
我々が動物、もしくは生命体として存在する限り、我々が目にし、耳にする客体の対象、その現実の領域は常に人間の主体のフィルタ―を通して現れた現象です。それが外界、人間にとっての世界です。そこでは、客体の対象それ自体、客体そのものは捉えていないし、捉えられません。しかし、捉えられないとは言え、外界である客体の対象がないのではない、主体があれば客体の対象はある、ここに言語としては捉えられない〈第三項〉の領域がある、この名づけられていない具体的な個々の事物は〈言語以後〉の言語によって制作された虚構だったのです。ユダヤ人にして、ゲイを標榜する歴史学者ハラリ氏も、『サピエンス全史』でここを起点にして、人間の在り方を対象化し構想しています。この地平から我々はどう生き、どう死んだらよいか、自身の生死に向き合ってみましょう。我々は何を価値の根源として求めれば、幸福を得られるのでしょうか。
思うに、この超情報化社会の時代に、新たに登場した気鋭の若手の思想家・哲学者達に共有されているのは、「私」という主体の底に「魂」を求めることです。古田徹也の『言葉の魂の哲学』(講談社選書メチエ)は、端的にこれがタイトルに現れています。國分功一郎は能動態と受動態の間である「中動態」とは何かを問うて、言語としての日本語の「私」という主体の在り方自体を徹底的に相対化しようとしています。主体の在り方を問うと、他者との関係、すなわち、『「利他」とは何か』(集英社選書)が問われます。執筆者五人のメンバー(美学者伊藤亜紗・政治学者中島岳志・批評家若松英輔・哲学者國分功一郎・小説家磯崎憲一郎)はそれぞれの専門領域を駆使していて、「利他」あるいは「利己」と捉える「私」自身の主体の底に「魂」を希求しているのではないでしょうか。
他方、老練の作家村上春樹は既に2009年2月、戦闘の現場エルサレムの地で決死の覚悟をもって行った講演「「壁と卵」―エルサレム賞・受賞のあいさつ」で、システムという「壁」の「正しさ」を斥け、壊れものの「卵」の側に立つと宣告します。それは単に組織という「壁」に対して個人が闘いを挑んだのではありません。「個人」もまた「壁」に守られ、「壁」の一部なのですから。「私」という主体における「魂」があらゆるシステムに潜む因果律の「正しさ」に闘いを挑んだのです。人と人、あるいは人と他の生き物の間に、双方の「魂」と「魂」を響き合わせること、村上はこれを自らの唯一の文学の指針にしている、わたくしにはそう思われます。こうした読み方は大方の村上ファンの読み方を逸脱しているでしょうが、この指針は近作でも貫かれています。
村上春樹は2020年4月のエッセイ『猫を棄てる 父親について語るとき』(文藝春秋)、同年7月の短編小説集『一人称単数』(文藝春秋)の二作で、〈語り手〉の「一人称単数」の「私」とは何かという多年の難問に決着をつけました。簡単に言えば、〈語り手〉の「私」を捉えるには「私」を超越する「私」、反「私」を必要としたのです。一人称の「私」とは、「私」と言う主体に背く反「私」との化合物であり、ここで言う反「私」とは、「私」ならざる、非「私」に留まるのではなく、宇宙の無限の偶然、因果関係を持たない偶然によってたまたま誕生したものであり、この反「私」と出会うためには、自身の意識の底である無意識、その底をさらに破って、その外部に出る離れ業が必要となります。それが、「私」とはこれまでの「私」=「私」という近代的自我史観ではなく、『私』=「私」+反「私」、もっと端的に言うと、「私」=反「私」であるという矛盾、パラドックスを手に入れることです。ここに村上春樹文学の原則的な物語、宇宙の究極を措定する秘密、難解さが隠れています。この難解さがある時期、伝統的な文学研究者に限らない、蓮實重彦や大江健三郎らに強く排斥、否定されなければならなかった所以です。
それではそもそも日本の近代小説はどう誕生し、どう変転し、今日に至ったのか、日本の近代文学史をごく簡略に振り返って見ましょう。
日本の近代小説は明治維新から二十年ほどたって産声を上げ登場したのですが、その本流は近代リアリズムの発見と共ありました。それは実際に目に見え、耳に聴こえるという知覚作用によって保証される本当の現実の発見という思考であり、そこに近代の夜明け、新たな世界観があり、真の自己の発見に向かおうとする歴史は原則的には坪内逍遥の『小説神髄』から今日まで脈々と続いています。近代文学は真実の自己を発見し、そのために社会と闘い、これを獲得する、そこに真に生きるに値する価値があると追い求めてきたのでした。ところが、その中でも真に傑作に値するものは、同時に本流のリアリズムを相対化し、これを超える不条理の領域にも挑んでいたのです。
条理と不条理、それら双方の後ろに隠れていたのは、対立する近代科学と伝統的土着の文化でした。その対立・矛盾を超えようと、近代小説の本流であるリアリズムを突き詰め、ヒューマニティの底を突き破って、《神髄》に至ろうとしていたのです。鷗外は既に1889年1月、『舞姫』発表の前年の『小説論』でフランスの自然主義文学の泰斗、エミール・ゾラを批判して、小説は科学では捉えられない「天来の奇想」によって表現すると説き、漱石も1896年6月、評論の『人生』で、人生を「底なき三角形」と喩え、村上春樹は短編集『一人称単数』に収録された短編小説、『クリーム』で同様の譬喩、「中心がいくつもあって、しかも、外周を持たない円。」を人生と見做しています。条理にとどまっては《近代小説の神髄》には迫れません。
「壁」は社会や国家に限らない、自身の自我・自己の中にもあり、村上はこの「壁」を突き崩すと先程言いました。が、日本では既に宮沢賢治があからさまに次々と傑作の童話を、いや実は、賢治ばかりではない、大家の鷗外や漱石も、いやいや高名な批評家にウルトラエゴイストと誤解された志賀直哉、あるいは実はその近くにあって自殺した芥川龍之介、同じく自殺した三島由紀夫、川端康成、彼らもまた、この自身の中の「壁」の条理の外部の時空、矛盾を内包した宇宙の究極、《神髄》に向かっていたのでした。不条理とはこの〈第三項〉を一つの観念として捉えたに過ぎません。
これを捉えるには、読者はいかにすればよいのでしょうか。具体的な作品の〈読み方〉は【付記】に掲げた作品論を御覧ください。詳しく論じています。ここではそのあらましを述べておきます。
近代小説の《神髄》と呼ぶに値する作品を読むことの王道は、リアリズムを超越する〈作品の意志〉に向かうこと(とわたくしは信じています)、近代文学の読者は物語の奥に隠れた〈作品の意志〉に撃たれることです。
これは困難なことで、例えば村上の『猫を棄てる』なら、現代の翻訳界・批評界を代表するお一人、鴻巣友希子氏は批評の文章、「村上春樹「猫を棄てる」をめぐって」(『文學界』2019・7)で、これを棄てた猫が元の家に帰ってくる物語、因果律の枠組みで読んでいて、末尾の子猫の行方が分からないという不条理、その「死について考え」ることはしません。そこでは因果律が、リアリズムが通用しないのです。『猫を棄てる』の〈語り手〉の「私」は、肉親の父と子の間と言えど、そこには互いの了解不能の《他者》が横たわっていることを熟知しています。自身の主体の識閾下を超えたその外部にある反「私」と父親とが交差しているのであり、そこではリアリズムの領域を超えて語られているのです。
宮沢賢治の『なめとこ山の熊』なら、賢治研究の権威天沢退二郎氏は新潮文庫で解説している通り、物語の末尾を「悲劇的なラスト」と捉えます。『なめとこ山の熊』の末尾は「悲劇的」どころかその対極、宇宙の究極と重なる極限が描写され、それは賢治のイデオロギー、「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」(『農民芸術概論綱要』の「序論」)に至る至極の世界なのです。
魯迅の『故郷』なら、魯迅文学研究者の藤井省三氏が「魯迅と松本清張―「故郷」批判と推理小説「張り込み」への展開」(『魯迅と日本文学』東京大学出版会)で、生身の〈語り手〉「私」のまなざしを批判し、相対化していますが、これを語る〈機能としての語り手〉の存在を見過ごしています。こうした読み方と私見は原理的に対立します。『故郷』はお話の末尾、有名な「希望」が語られていますが、二十年ぶりに故郷に帰ってきた〈語り手〉の「私」はその時既に稀代の相対主義者であったのであり、それが末尾、その主体を完璧に瓦解・倒壊させてしまったがゆえに、自身の外部、〈向こう〉から差し込む「希望」の地平を捉えるのです。もともと地上には「道」がないように、「希望」もないのです。あるのは相対主義のなかの「希望」でしかありません。すぐ壊れます。それゆえ鍵は内にあって、その外部から開くのです。
近代小説の《神髄》に向かうことは主体の瓦解・倒壊の極致、死(自決)と裏腹です。そこを潜り抜けるには、作家も読者も自らの意識の底の、村上春樹の比喩で言えば、識閾下のさらに外部である「地下二階」、〈言語以前〉の虚空=voidに向かわざるを得ないのです。リアリズムの枠から外れ、捉えようとして捉えられない了解不能の《他者》=〈第三項〉と対峙し、対決しているのです。
一方、文学教育は、文学作品の価値を追いかけていくだけでは済まない問題を抱え込んでいます。近代小説の出発の時期の先駆者北村透谷から、戦後文芸批評をリードしてきた江藤淳まで、文学史は自殺者の系譜でもあります。彼らが未熟だったからでは毛頭ありません。近代小説の《神髄》は自己許容(ミミクリ・自己弁護)を許しません。〈作品の意志〉に向かうのは厄介なだけでなく、危険なのです。時に人を殺します。教育者の先生方はそういう問題も相対化し、一人ひとりを生かすことが求められます。そういう問題を抱えることが文学研究にとっても大事だと私は考えています。両者は手を携え、互いを鑑にして協力し合い、己れの命を生かすことだと思っています。
【付記】
本稿のタイトルで「三つの作品論」と呼んでいるのは以下の拙稿です。
※ 「無意識に眠る罪悪感を原点にした三つの物語 ―〈第三項〉論で読む村上春樹の『猫を棄てる 父親について語るとき』と『一人称単数』、あまんきみこの童話『あるひあるとき』―」(『都留文科大学院紀要』第25集 2021・3)
※ 「魯迅『故郷』の秘鑰 ―「鉄の部屋」の鍵は内にあって扉は外から開く―」(『都留文科大学研究紀要』第93集 2021・3)
※ 「『なめとこ山の熊』の行方 ―互いに先に死のうとする熊と小十郎―」(都留文科大学リポジトリに所収 2021・6)
なお、この記事は7月13日に掲載したものを本日(7月15日)書き改めましたことをお断わりします。
三つの作品論の傍ら―〈第三項〉という世界観認識の転換―
現在の超情報化社会における科学技術の進歩は、驚くほど文字通り急激です。AI(人工知能)を搭載した兵器による戦闘やサイバー攻撃、遺伝子操作した生命を誕生させる等、かつて人類に幸福をもたらす希望の象徴だった科学技術の発達は今や、一方で確実に人類に破滅の恐怖を与えています。思想界では、1970年代末「ポストモダン」が登場して文化的多元主義、文化的相対主義が広がり、その後「ポスト真実」と呼ばれたりと、多種多様な思想が氾濫する昏迷の中にあります。その出口が見えないなか、2019年末、唐突に現れたコロナウイルスは瞬く間に世界中に広がり、今も膨大な感染者と死亡者を産み出し続けています。平穏な日常が壊れ、先の見えない不安のなか、人類の未来は絶滅の危機と隣り合わせ、思想界の昏迷もいっそう加速しています。
我々の文明はどこに向かって行くのか、そもそも人間とは何であって、我々人間の生命とはいかなる存在なのか、それに立ち向かった一つが大ベストセラー、イスラエルの歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリ氏の『サピエンス全史』(河出書房新社)です。これは世界60の言語に翻訳されたと聞いています。ハラリ氏は何故、数多の原始人の中から弱々しいホモ・サピエンスだけが地球上に生き残り、文明を発展させ、今日に至っているのか、その理由を実体のない虚構を想像する力によって巨大な人間集団を作り出したからだと説きます。人類は「貨幣」「帝国」「宗教」の三つのフィクションを造り出し、その巨大な虚構のイメージに支配されてきたというのです。
これらは人間が作り出したイデオロギーに過ぎないにもかかわらず、なかでも「宗教」という虚構は自身の依拠する絶対の《神》とこれと対立し、否定するもう一つの別の絶対の《神》との戦闘を繰り返し引き起こし続けてきました。その底には、極限のニヒリズム、虚無が隠れており、これを掘り起こして手懐(てなず)け、超えることができるかどうかが人類の存亡の鍵、文明の未来を決する一つでしょう。
ならばここからは我々の問題、ひとまず、ホモ・サピエンスが人間として登場する以前、キリスト教の場合、『新約聖書』の「ヨハネによる福音書」の冒頭、「初めに言(ことば)があった。言(ことば)は神とともにあった。」とあるその「言(ことば)」以前の時空を措定してみましょう。「初めに言(ことば)があった。言(ことば)は神とともにあった。」というフィクションより以前を一旦措定すると、《神》も、これに対抗する《科学》も、全てのイデオロギーを相対化することが可能になります。そうすると次のことが見えてきます。
我々が動物、もしくは生命体として存在する限り、我々が目にし、耳にする客体の対象、その現実の領域は常に人間の主体のフィルタ―を通して現れた現象です。それが外界、人間にとっての世界です。そこでは、客体の対象それ自体、客体そのものは捉えていないし、捉えられません。しかし、捉えられないとは言え、外界である客体の対象がないのではない、主体があれば客体の対象はある、ここに言語としては捉えられない〈第三項〉の領域がある、この名づけられていない具体的な個々の事物は〈言語以後〉の言語によって制作された虚構だったのです。ユダヤ人にして、ゲイを標榜する歴史学者ハラリ氏も、『サピエンス全史』でここを起点にして、人間の在り方を対象化し構想しています。この地平から我々はどう生き、どう死んだらよいか、自身の生死に向き合ってみましょう。我々は何を価値の根源として求めれば、幸福を得られるのでしょうか。
思うに、この超情報化社会の時代に、新たに登場した気鋭の若手の思想家・哲学者達に共有されているのは、「私」という主体の底に「魂」を求めることです。古田徹也の『言葉の魂の哲学』(講談社選書メチエ)は、端的にこれがタイトルに現れています。國分功一郎は能動態と受動態の間である「中動態」とは何かを問うて、言語としての日本語の「私」という主体の在り方自体を徹底的に相対化しようとしています。主体の在り方を問うと、他者との関係、すなわち、『「利他」とは何か』(集英社選書)が問われます。執筆者五人のメンバー(美学者伊藤亜紗・政治学者中島岳志・批評家若松英輔・哲学者國分功一郎・小説家磯崎憲一郎)はそれぞれの専門領域を駆使していて、「利他」あるいは「利己」と捉える「私」自身の主体の底に「魂」を希求しているのではないでしょうか。
他方、老練の作家村上春樹は既に2009年2月、戦闘の現場エルサレムの地で決死の覚悟をもって行った講演「「壁と卵」―エルサレム賞・受賞のあいさつ」で、システムという「壁」の「正しさ」を斥け、壊れものの「卵」の側に立つと宣告します。それは単に組織という「壁」に対して個人が闘いを挑んだのではありません。「個人」もまた「壁」に守られ、「壁」の一部なのですから。「私」という主体における「魂」があらゆるシステムに潜む因果律の「正しさ」に闘いを挑んだのです。人と人、あるいは人と他の生き物の間に、双方の「魂」と「魂」を響き合わせること、村上はこれを自らの唯一の文学の指針にしている、わたくしにはそう思われます。こうした読み方は大方の村上ファンの読み方を逸脱しているでしょうが、この指針は近作でも貫かれています。
村上春樹は2020年4月のエッセイ『猫を棄てる 父親について語るとき』(文藝春秋)、同年7月の短編小説集『一人称単数』(文藝春秋)の二作で、〈語り手〉の「一人称単数」の「私」とは何かという多年の難問に決着をつけました。簡単に言えば、〈語り手〉の「私」を捉えるには「私」を超越する「私」、反「私」を必要としたのです。一人称の「私」とは、「私」と言う主体に背く反「私」との化合物であり、ここで言う反「私」とは、「私」ならざる、非「私」に留まるのではなく、宇宙の無限の偶然、因果関係を持たない偶然によってたまたま誕生したものであり、この反「私」と出会うためには、自身の意識の底である無意識、その底をさらに破って、その外部に出る離れ業が必要となります。それが、「私」とはこれまでの「私」=「私」という近代的自我史観ではなく、『私』=「私」+反「私」、もっと端的に言うと、「私」=反「私」であるという矛盾、パラドックスを手に入れることです。ここに村上春樹文学の原則的な物語、宇宙の究極を措定する秘密、難解さが隠れています。この難解さがある時期、伝統的な文学研究者に限らない、蓮實重彦や大江健三郎らに強く排斥、否定されなければならなかった所以です。
それではそもそも日本の近代小説はどう誕生し、どう変転し、今日に至ったのか、日本の近代文学史をごく簡略に振り返って見ましょう。
日本の近代小説は明治維新から二十年ほどたって産声を上げ登場したのですが、その本流は近代リアリズムの発見と共ありました。それは実際に目に見え、耳に聴こえるという知覚作用によって保証される本当の現実の発見という思考であり、そこに近代の夜明け、新たな世界観があり、真の自己の発見に向かおうとする歴史は原則的には坪内逍遥の『小説神髄』から今日まで脈々と続いています。近代文学は真実の自己を発見し、そのために社会と闘い、これを獲得する、そこに真に生きるに値する価値があると追い求めてきたのでした。ところが、その中でも真に傑作に値するものは、同時に本流のリアリズムを相対化し、これを超える不条理の領域にも挑んでいたのです。
条理と不条理、それら双方の後ろに隠れていたのは、対立する近代科学と伝統的土着の文化でした。その対立・矛盾を超えようと、近代小説の本流であるリアリズムを突き詰め、ヒューマニティの底を突き破って、《神髄》に至ろうとしていたのです。鷗外は既に1889年1月、『舞姫』発表の前年の『小説論』でフランスの自然主義文学の泰斗、エミール・ゾラを批判して、小説は科学では捉えられない「天来の奇想」によって表現すると説き、漱石も1896年6月、評論の『人生』で、人生を「底なき三角形」と喩え、村上春樹は短編集『一人称単数』に収録された短編小説、『クリーム』で同様の譬喩、「中心がいくつもあって、しかも、外周を持たない円。」を人生と見做しています。条理にとどまっては《近代小説の神髄》には迫れません。
「壁」は社会や国家に限らない、自身の自我・自己の中にもあり、村上はこの「壁」を突き崩すと先程言いました。が、日本では既に宮沢賢治があからさまに次々と傑作の童話を、いや実は、賢治ばかりではない、大家の鷗外や漱石も、いやいや高名な批評家にウルトラエゴイストと誤解された志賀直哉、あるいは実はその近くにあって自殺した芥川龍之介、同じく自殺した三島由紀夫、川端康成、彼らもまた、この自身の中の「壁」の条理の外部の時空、矛盾を内包した宇宙の究極、《神髄》に向かっていたのでした。不条理とはこの〈第三項〉を一つの観念として捉えたに過ぎません。
これを捉えるには、読者はいかにすればよいのでしょうか。具体的な作品の〈読み方〉は【付記】に掲げた作品論を御覧ください。詳しく論じています。ここではそのあらましを述べておきます。
近代小説の《神髄》と呼ぶに値する作品を読むことの王道は、リアリズムを超越する〈作品の意志〉に向かうこと(とわたくしは信じています)、近代文学の読者は物語の奥に隠れた〈作品の意志〉に撃たれることです。
これは困難なことで、例えば村上の『猫を棄てる』なら、現代の翻訳界・批評界を代表するお一人、鴻巣友希子氏は批評の文章、「村上春樹「猫を棄てる」をめぐって」(『文學界』2019・7)で、これを棄てた猫が元の家に帰ってくる物語、因果律の枠組みで読んでいて、末尾の子猫の行方が分からないという不条理、その「死について考え」ることはしません。そこでは因果律が、リアリズムが通用しないのです。『猫を棄てる』の〈語り手〉の「私」は、肉親の父と子の間と言えど、そこには互いの了解不能の《他者》が横たわっていることを熟知しています。自身の主体の識閾下を超えたその外部にある反「私」と父親とが交差しているのであり、そこではリアリズムの領域を超えて語られているのです。
宮沢賢治の『なめとこ山の熊』なら、賢治研究の権威天沢退二郎氏は新潮文庫で解説している通り、物語の末尾を「悲劇的なラスト」と捉えます。『なめとこ山の熊』の末尾は「悲劇的」どころかその対極、宇宙の究極と重なる極限が描写され、それは賢治のイデオロギー、「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」(『農民芸術概論綱要』の「序論」)に至る至極の世界なのです。
魯迅の『故郷』なら、魯迅文学研究者の藤井省三氏が「魯迅と松本清張―「故郷」批判と推理小説「張り込み」への展開」(『魯迅と日本文学』東京大学出版会)で、生身の〈語り手〉「私」のまなざしを批判し、相対化していますが、これを語る〈機能としての語り手〉の存在を見過ごしています。こうした読み方と私見は原理的に対立します。『故郷』はお話の末尾、有名な「希望」が語られていますが、二十年ぶりに故郷に帰ってきた〈語り手〉の「私」はその時既に稀代の相対主義者であったのであり、それが末尾、その主体を完璧に瓦解・倒壊させてしまったがゆえに、自身の外部、〈向こう〉から差し込む「希望」の地平を捉えるのです。もともと地上には「道」がないように、「希望」もないのです。あるのは相対主義のなかの「希望」でしかありません。すぐ壊れます。それゆえ鍵は内にあって、その外部から開くのです。
近代小説の《神髄》に向かうことは主体の瓦解・倒壊の極致、死(自決)と裏腹です。そこを潜り抜けるには、作家も読者も自らの意識の底の、村上春樹の比喩で言えば、識閾下のさらに外部である「地下二階」、〈言語以前〉の虚空=voidに向かわざるを得ないのです。リアリズムの枠から外れ、捉えようとして捉えられない了解不能の《他者》=〈第三項〉と対峙し、対決しているのです。
一方、文学教育は、文学作品の価値を追いかけていくだけでは済まない問題を抱え込んでいます。近代小説の出発の時期の先駆者北村透谷から、戦後文芸批評をリードしてきた江藤淳まで、文学史は自殺者の系譜でもあります。彼らが未熟だったからでは毛頭ありません。近代小説の《神髄》は自己許容(ミミクリ・自己弁護)を許しません。〈作品の意志〉に向かうのは厄介なだけでなく、危険なのです。時に人を殺します。教育者の先生方はそういう問題も相対化し、一人ひとりを生かすことが求められます。そういう問題を抱えることが文学研究にとっても大事だと私は考えています。両者は手を携え、互いを鑑にして協力し合い、己れの命を生かすことだと思っています。
【付記】
本稿のタイトルで「三つの作品論」と呼んでいるのは以下の拙稿です。
※ 「無意識に眠る罪悪感を原点にした三つの物語 ―〈第三項〉論で読む村上春樹の『猫を棄てる 父親について語るとき』と『一人称単数』、あまんきみこの童話『あるひあるとき』―」(『都留文科大学院紀要』第25集 2021・3)
※ 「魯迅『故郷』の秘鑰 ―「鉄の部屋」の鍵は内にあって扉は外から開く―」(『都留文科大学研究紀要』第93集 2021・3)
※ 「『なめとこ山の熊』の行方 ―互いに先に死のうとする熊と小十郎―」(都留文科大学リポジトリに所収 2021・6)