公開日:2019/05/16・更新日:2022/07/10
◆ミセと蔵
粕壁宿の道しるべからさらに200m程度下った交差点の角に立派な蔵のある商店があります。
◆ミセと蔵
写真の建物は、粕壁宿に現存する土蔵のある町家(「田村荒物店」)。
かすかべ大通りと公園橋通りの交差点の角にあるこの町家(「田村荒物店」)では、一番、三~五番蔵と呼ばれる4棟の蔵が残っています。
ミセの前にあるポール型の案内板
◆案内板
中宿(なかじゅく・仲町)と呼ばれたこの辺りには、江戸時代に米問屋など蔵造りの商家や旅籠屋(はたごや)などが多く並んだ。
粕壁宿の商家は、間口が狭く奥行きの長い敷地で、街道の並びには商業空間としての「ミセ」を、その奥には生活空間としての「オク」がつくられた。
このような短冊状の地割は、江戸時代の宿場町にみられる歴史的な景観の一つである。街道の北側の商家は古利根川まで蔵を連ね、舟を乗りつけ荷を上げ下げされた。現存する蔵造りの建物は、火災除けのため、幕末から明治期にかけて建てられものが多い。
平成二十七年七月
春日部市教育委員会
ポール型の案内板の絵図を拡大すると
◆中宿
この「かすかべ大通り(旧日光道中)」は、電線が地中化されていて、そこに設置してある「配電盤」には、粕壁宿の旧町名とその町を表す絵が描かれています。
中宿の場合は
歩道側、神社は粕壁神明社でしょうか?
車道側、お祭り?
春日部市史(第5巻・民俗編)にこの商家の例が「T家」として記載されています。
それによると
T家が雑貨商を始めたのは終戦後のことで、それまでは質屋をしていた。住居部分の先に内蔵があるのは預かった品物を保管するためであった。しかし、T家はもと四〇町余の大地主であり、その小作料が主な収入源であった。主として米を入れる蔵は、幅三間(※1)・長さ八間のものと、幅ニ間半・長さ九間のものと二つあった。蔵の一部には床を張り、年寄りの部屋になっていた。
質物や米俵を多く収納していることはもちろん、隣家と軒を連ねている町家では、防火の備えを常に怠ることがなかったという。
店はチョウバ(帳場)といい、床部分は畳三枚分で、あとは土間だった。恵比寿・大黒が祀ってあった。
竈は別棟で、井戸のそばに二つあった。餅は竈のそばの屋外で餅を搗いた。
実に立派な笠間稲荷が祀られている。かつては、オビシャ(※2)には、近所のお祖母ちゃんがよく集まったものであるという。スミツカリ(※3)も作ったものだった。
母屋の裏の畑は自家用の野菜を作った。茶の木も植えてあった。
(引用:春日部市史・第5巻・民俗編・第一章・第三節・住居・三・町家)
※1:1間=1. 1818メートル
※2:オビシャ=主に茨城県から千葉県にかけての利根川沿いで多く行われてきた農村の神事で、年頭に行う。三本足のカラスや鬼を描いた的を弓で射て、その年の豊凶を占うものであるという。馬に乗って弓を射るのに対して、馬に乗らずに弓を射る徒弓(かちゆみ)神事。「歩射(ぶしゃ)」がなまったものという説が有力とされる。また、的を射る行事が脱落し、単に年頭の初寄り合いになっているところも少なくない。
※3:スミツカリ=栃木、茨城、群馬、埼玉各県の郷土料理。二月の初午(はつうま)の日によく作られる。初午の日に赤飯とともに稲荷神社に供える行事食。鮭の頭と大豆、ニンジン、大根などの根菜、酒粕を煮込んだ料理である。地域により「しもつかり」、「しみつかり」、「しみつかれ」、「すみつかれ」、「すみつかり」とも。
◆町家
間口が狭くて、奥行きが長い、いわゆる「うなぎの寝床」のような建物は、京都の町家などで多く見られます。
前掲の春日部市史では、粕壁宿の町家の特徴として、
通りに面する側は、現在の様子から推定すると、七間半ぐらいで、店の建物がおよそ四間半、荷車を引き込める一間半ほどの道幅と植え込みになっている。奥行は二○間ないし三○間余のものもある。
通りに面した店から部屋を直線的に奥に続けて、住宅部分・文庫蔵など、次いで別棟の竃場・井戸・灰小屋・便所・蔵・倉庫など、また屋敷神が祀られ、奥へ奥へと続いていた。広い敷地の場合、一番奥辺りは自家用の菜園になっていた。
竃や風呂場など火を使う所は、母屋と別に、母屋と平行させ、わずかでも距離をおいて別屋根の小屋を作る。灰小屋は、どの建物からもできるだけ離した位置においてある。火事の火元になってしまったときの社会的制裁は取り返しのつかない恐ろしいものである。
としています。
一説には、江戸時代、間口(家などの正面)の広さで税(間口税)を課していたところから、税負担を軽くするため間口が狭く細長い家が多くなった、と言われています。もっとも、それは俗説とも。
脇の歩道
土蔵 裏から
土蔵の裏には菜園(?)
以前、土蔵の中を観せて頂く機会がありました。その際、ご主人(四代目?)は
明治8年に店と母屋内蔵が、明治23年に裏の土蔵が完成。市史にあるように、初代と二代目は終戦まで質店を経営、三代目が昭和22年に荒物店を開業。また、昭和61年の道路拡幅の際、店前側歩道と川端側の三方に道路がかかり、曳家工法で増改築した。この道路拡幅で、敷地はかなり狭くなった。そして、本当に観てもらいたいのは江戸時代から庭にある梅の老木なんだけどね。
などと仰っていました。また、敷地内には屋敷稲荷も祀ってありました。
歩道脇には
人工の清流(?)が
そして、粕壁宿では〇〇〇にも絵が
向かいの公衆トイレ
壁面には宿場の様子(?)の絵が描かれています。
こちらにも清流
コンコンと
僅か数十メートルの小さな木陰ですが、下を通ると涼しい川風が吹いてきます。