かすかべみてある記

日光道中第4の宿場町・粕壁宿を忠心にクレヨンしんちゃんのまちかすかべをみてある記ます。

日光道中粕壁宿・土蔵のある町家

2022-07-06 19:30:00 | 地域発信情報
公開日:2019/05/14・更新日:2022/07/06

古い建造物

現在のかすかべ大通り(旧日光道中・粕壁宿)沿いは、都市化の進展もあり往時の姿はほとんど留めてはいませんが、それでも僅かながら幕末以降に造られた土蔵を持つ古い建造物が残されています。  

土蔵とは

土蔵は土壁で造られた蔵の総称で、現在残っている白や黒の漆喰で仕上げる大壁造りの土蔵は近世(幕末以降)になってから造られたと言われています。

耐火建築を目的に造られた土蔵は、屋根は瓦葺きにし、壁は太い竹を芯に入れ土壁を重ねて塗り、最後に漆喰(しっくい)で仕上げます。また、扉や窓には段を設け密封性を高めます。

それらの建造物は、用途によって「主屋」・「米蔵」・「店蔵」・「文庫土蔵(土壁で造られた蔵の総称で、現在残っている白や黒の漆喰で仕上げる大壁造りの蔵)」等に分けられていました。「米蔵」は集積した米等の商品を、「店蔵」は帳簿等を、そして「文庫蔵」は美術品等の大切な家財を保管するものでした。  

◆土蔵の普及

土蔵が本格的に普及し始めたのは江戸時代の中ごろで、度重なる大火を経験した江戸の町に対して、幕府が防火対策として耐火建築の土蔵を奨励したことによります。

そして土蔵建築が粕壁など江戸近郊に広がったのは幕末から明治のころで、蔵造りの町並みで知られる川越の蔵も明治の半ばごろに造られました。 

粕壁宿に現存する土蔵も同じ時期に造られたと考えられています。一説には、古利根川対岸の小淵村から出火した「島村の大火」(天保6年(1835))によって被害が粕壁宿内に広範囲に及んだため、その後の明治23年頃から防火対策として土塀漆喰の土蔵造りが、この付近に普及したと言われています。

◆土蔵のある商家 

そのシンボル的な建造物がこちら


前回ご紹介した「道しるべ」がある「東屋 田村本店」

店の前に「道しるべ」が建っている「東屋 田村本店」では、「店蔵」から、幕末の弘化3年(1847)、嘉永4年(1852)銘の、そして「穀物蔵」から大正2年(1913)銘の墨書が確認されているそうです。 


突き当りの大落古利根川まで続く土塀 

奥行きがかなりあります。狭い間口に比べて奥行きがあるのが特徴です。

春日部市立郷土資料館のジオラマで見ると良くわかります。(許可を得て撮影)


関根名主(許可を得て撮影)
土塀の先には白壁が

白壁は2011年の東日本大震災で少し崩れていましたが、その後きれいに修復されています。

古利根公園橋から見ると



渋沢栄一やあの宮様も

東日本大震災の前年、この商家の屋根を修理した(株)オオギヤさんのブログ(2010.6.20〜22日に書かれた)がありますので、こちらをどうぞ。とても参考になります。

↓↓

オオギヤ 国内・海外旅行、屋根、久喜の瓦のブログ

ブログでは、

ー前略ー
また、離座敷は現位置を保つ数少ない敷地内の建造物で、古利根川を意識した高貴な客を招き入れる構造で、渋沢栄一を始め東久邇宮等が来訪したという由来が残されているそうです。
春日部の田村家は春日部市内でも有数の旧家で、大地主であった。現在の中川、旧古利根川の水運によって、小作農家から揚がってきた米、麦、豆などの五穀を中心に、江戸より買いいれた塩、砂糖などを販売していたそうです。
ー以下略ー

と書かれています。何分、個人のお宅であり、公共の建物ではありませんので、今まで知りませんでした。

また、ブログには、

渋沢栄一や東久邇宮様(宿泊もございました)が来訪された

とも書いてあります。そして、宮様の来訪、ご宿泊を記念した「記念碑」が邸内にあるそうです。あとはブログをお読みください。 

伊藤博文

また、こちらのサイト(埼玉県住まいづくり協議会)には、伊藤博文も来訪されたと書かれています。初めて知りました。

↓↓

#20 舟運と陸運の要路 春日部


後に日本銀行券(お札)の顔となる二人が訪れたということです。






         



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