「都鳥の碑」と「業平橋」のことを書いてきました。記事を書くにあたって、いろいろ調べてみました。
すると、ある疑問が湧いてきました。今回はそれについて、
◆在原業平朝臣
「むかし、男ありけり…」で始まる伊勢物語の主人公とされる在原業平朝臣(ありわらのなりひらあそん)は、第51代平城天皇の皇子阿保(あぼ)親王の第五子。官位は従四位上・蔵人頭・右近衛権中将。また、古今和歌集の歌人で六歌仙・三十六歌仙の一人とされています。なお、『伊勢物語』は、古くから在原業平実伝の物語であるとされてきました。
◆伊勢物語
●第九段「東下り」
『伊勢物語』には、
業平朝臣は、藤原氏の権勢が日毎につのりゆくのを憤って、心は常に穏やかならず、平安の都に住むのも厭とわしくなり、東国に居場所を求めて下って行った。と
そして、九段の「東下り」後段には、
なほ行き行きて、武蔵の国と下つ総の国との中に、いと大(おほ)きなる河あり。それを隅田河といふ。その河のほとりにむれゐて、思ひやれば、限りなく遠くも来にけるかな、と、わびあへるに、渡守(わたしもり)、「はや舟に乗れ、日も暮れぬ」と言ふに、乗りて、渡らむとするに、みな人ものわびしくて、京(きやう)に思ふ人なきにしもあらず。さるをりしも、白き鳥の、はしあしと赤き、鴫(しぎ)の大きさなる、水の上に遊びつつ魚(いを)を食ふ。京(きやう)には見えぬ鳥なれば、みな人見知らず。渡守に問ひければ、「これなん都鳥(みやこどり)」と言ふを聞きて、
名にし負はばいざ言問はむ都鳥
わが思う人はありやなしやと
とよめりければ、舟こぞりて泣にけり。『新版伊勢物語』(石田譲二=約注、角川文庫466)、伊勢物語は、作者、成立共に未詳。
訳としては、
そうして旅枕をかさねて、武蔵国と下野国の境にある隅田川の渡し場に着き、渡し守に急かされ、舟に乗って川を渡ろうとしたとき、川の水面に遊ぶくちばしと足が赤く翼の白い水鳥の群れを見て、都では見たこともない鳥と思い、渡し守に尋ねた。
旅愁とともに懐旧の想いに心乱れて、
すると、渡し守は「みやこ鳥」と答えたので、業平は京都のことを思い出して、ひしひしと迫る
「名にしおばいざ言問はん都鳥わが思う人はありやなしやと」と歌を詠まれた。
と、一部略しましたが、概ねこのように書かれています。
この「東下り」の段は有名ですね。高校生の時習いました。その頃は、当地とは全く無関係でしたが、半世紀を経て、業平のことを書くなんて、今はとても不思議な気がしています。
ところで、業平朝臣が「東下り」の時、国境の隅田川の渡し場で、都鳥を見たとされる季節は一体いつなのでしょうか?
どうでもいいことですが、とても気になります。
この点について、後編で愚考したことを書きます。
後編に続く…
【参考図書】