かすかべみてある記

日光道中第4の宿場町・粕壁宿を忠心にクレヨンしんちゃんのまちかすかべをみてある記ます。

日光道中粕壁宿・最勝院(前編)

2022-10-10 19:30:00 | 地域発信情報
公開日:2019/3/26・更新日:2022/10/10

今年のカレンダーも早くも残り三枚となりました。雨も続きましたが、今日は空が高く感じ、空気も秋の爽やかさに。

遠出していましたが、再び粕壁宿へ戻ってきました。

寺町 

日光道中粕壁宿の突当りのこの辺りは、寺町と呼ばれ、五つの寺院が並んでいます。その中でも粕壁宿近在の本寺と言われていた寺院が粕壁宿の古刹「最勝院」です。

昔は、境内も広かったそうですが、今はあまり大きなお寺ではありません。まずは、その成り立ちから。

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山門

寺院名碑

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真言宗智山派華林山最勝院

また、門前の案内板(下記)にあるように、春日部重行公の墳丘(墳墓)もありますので、当地の歴史にも少しだけ触れることができます。なお、重行公の墳墓については、別稿にてご紹介いたします。

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門前の案内板

◆案内板

 最 勝 院  

   

   所在地 春日部市粕壁338

 

 最勝院は、神義真言宗智山派の寺院で、華林山最勝院慈恩寺という。最勝院のあるこの付近は、粕壁でも寺町と呼ばれていて最勝院のほか、妙楽院、成就、玉蔵院、普門院などの寺院が集まっていて、往時の粕壁の面影を残している。

 

 最勝院の本堂西側の墳丘は、春日部重行を葬ったものといわれている。

 春日部重行は、南朝の臣として後醍醐帝に仕え、元弘の乱などに功を成したことなどにより、上総の国山辺南部とこの春日部の地頭職を任じられたが、のちに、足利尊氏の軍勢と交戦し、敗れ、京都修学院鷺の森で自刃したといわれる。その後、重行の遺骨は最勝院にもちかえられ、境内に葬ったものといわれている。

 

 明治時代この最勝院は、粕壁小学校(明治五年)や粕壁税務署(明治四十ニ年)などに利用され、広い境内は大相撲の地方巡業やサーカス、村芝居の興業、各種の武道大会等にも利用された。

 また、明治ニ十六年に粕壁から越谷、草加を経て足立区千住までも結んで開業した千住馬車鉄道は、この最勝院を起点としている。

 

昭和六十一年三月

            春日部市

『新編武蔵風土記稿』には、

新義真言宗、山城国醍醐三寶院の末、慶安元年(1486)15石の御朱印を賜ふ、相伝ふ往古は慈恩寺観音堂の別当別当なりしが、永正元年(1054)奝尊といへる僧の住職せし頃、故ありて彼を辞して当所ヘ引移れり、因って華林山慈恩寺最勝院と称すと云、されど此伝へ慈恩寺にては、沙汰せざることなれば疑ふべし、此僧慈恩寺の住職たることはさもあるべし、思ふに彼が慈恩寺に在し、内別に一寺を当所へ建立し、山号・寺号共に本寺の称号を襲ひ用ひ、其内寺号は本尊の通称たるをもてこれを憚り、其院号をもて常の称とせしものならん、さるにより始は天台宗なりしが、中古今の宗に改む、中興開山を俊弘と云、延宝七年(1679)示寂、墓所に石碑あり、此僧高徳の聞えありて、僧俗の信仰斜ならず、示寂の後も諸人群詣すと云、其後法流の開祖を俊慶と称す、正徳元年(1771)十一月二十日寂す、
本尊千手観音、弘法大師の作と云。
鐘楼元禄四年(1701)鋳造の鐘をかく。
寺宝繍御打敷二枚。慶安四年(1650)大猷院殿日光山へ御葬送の時、当寺御旅館となり、其節賜りしと云、御棺の上を覆ひし御品なれど、今は御打敷と唱えり、惣体鳥獣草花を織出し、幅は上の方三尺、下は広ごりて、九尺許あり。
護摩堂、不動を安ず。
稲荷社。

と記されています。江戸時代には鐘があったようですが、残念ながら今はその痕跡すらありません。

なお、大猷院とは、三代将軍徳川家光のこと。日光に葬送される際、この最勝院が宿泊場所になり、その際、御打敷が下賜されたと伝えられ、仏教では、打敷は、本来下に敷くもののようですが、その時は、家光の棺を覆った、と記述されています。 

また、『武蔵国郡村誌』には、  

新義真言宗京都醍醐寺三寶院の末派なり、開山奝尊創建未詳。

とのみ、簡単に記述されています。

なお、『新編武蔵風土記稿』及び『武蔵国郡村誌』については、

※『新編武蔵風土記稿  全12巻、索引編』(蘆田伊人編集 校訂  雄山閣1996):  徳川幕府が文化7(1810)年~文政11(1828)年に編纂した武蔵国の地誌。各村にある山、川、寺社なども掲載され、当時の村の状況を知る上で欠かせない資料。由来が掲載されている地名もあります。(『国立国会図書館レファレンス協同データベース』)

※『武蔵国郡村誌  全15巻』(埼玉県編  埼玉県  1953-1955):明治8(1875)年の太政官布告により全国で行われた地誌編纂により、埼玉県が地理寮に提出したもの。明治初期の各村の状況がわかります。(『国立国会図書館レファレンス協同データベース』)


最勝院には興味深い点が沢山ありますので、続けて書いていきたいと思います。

 後編に続く…

 

【最勝院】

 

 

 

 



備考:本記事は、当初2019年3月26日にエントリーしたものですが、2021年5月24日に前後編に分け更新し、本日再更新しエントリーしました。



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