今年のカレンダーも早くも残り三枚となりました。雨も続きましたが、今日は空が高く感じ、空気も秋の爽やかさに。
遠出していましたが、再び粕壁宿へ戻ってきました。
寺町
日光道中粕壁宿の突当りのこの辺りは、寺町と呼ばれ、五つの寺院が並んでいます。その中でも粕壁宿近在の本寺と言われていた寺院が粕壁宿の古刹「最勝院」です。
昔は、境内も広かったそうですが、今はあまり大きなお寺ではありません。まずは、その成り立ちから。
寺院名碑
また、門前の案内板(下記)にあるように、春日部重行公の墳丘(墳墓)もありますので、当地の歴史にも少しだけ触れることができます。なお、重行公の墳墓については、別稿にてご紹介いたします。
◆案内板
最 勝 院
所在地 春日部市粕壁338
最勝院は、神義真言宗智山派の寺院で、華林山最勝院慈恩寺という。最勝院のあるこの付近は、粕壁でも寺町と呼ばれていて最勝院のほか、妙楽院、成就、玉蔵院、普門院などの寺院が集まっていて、往時の粕壁の面影を残している。
最勝院の本堂西側の墳丘は、春日部重行を葬ったものといわれている。
春日部重行は、南朝の臣として後醍醐帝に仕え、元弘の乱などに功を成したことなどにより、上総の国山辺南部とこの春日部の地頭職を任じられたが、のちに、足利尊氏の軍勢と交戦し、敗れ、京都修学院鷺の森で自刃したといわれる。その後、重行の遺骨は最勝院にもちかえられ、境内に葬ったものといわれている。
明治時代この最勝院は、粕壁小学校(明治五年)や粕壁税務署(明治四十ニ年)などに利用され、広い境内は大相撲の地方巡業やサーカス、村芝居の興業、各種の武道大会等にも利用された。
また、明治ニ十六年に粕壁から越谷、草加を経て足立区千住までも結んで開業した千住馬車鉄道は、この最勝院を起点としている。
昭和六十一年三月
春日部市
『新編武蔵風土記稿』には、
新義真言宗、山城国醍醐三寶院の末、慶安元年(1486)15石の御朱印を賜ふ、相伝ふ往古は慈恩寺観音堂の別当別当なりしが、永正元年(1054)奝尊といへる僧の住職せし頃、故ありて彼を辞して当所ヘ引移れり、因って華林山慈恩寺最勝院と称すと云、されど此伝へ慈恩寺にては、沙汰せざることなれば疑ふべし、此僧慈恩寺の住職たることはさもあるべし、思ふに彼が慈恩寺に在し、内別に一寺を当所へ建立し、山号・寺号共に本寺の称号を襲ひ用ひ、其内寺号は本尊の通称たるをもてこれを憚り、其院号をもて常の称とせしものならん、さるにより始は天台宗なりしが、中古今の宗に改む、中興開山を俊弘と云、延宝七年(1679)示寂、墓所に石碑あり、此僧高徳の聞えありて、僧俗の信仰斜ならず、示寂の後も諸人群詣すと云、其後法流の開祖を俊慶と称す、正徳元年(1771)十一月二十日寂す、
本尊千手観音、弘法大師の作と云。
鐘楼元禄四年(1701)鋳造の鐘をかく。
寺宝繍御打敷二枚。慶安四年(1650)大猷院殿日光山へ御葬送の時、当寺御旅館となり、其節賜りしと云、御棺の上を覆ひし御品なれど、今は御打敷と唱えり、惣体鳥獣草花を織出し、幅は上の方三尺、下は広ごりて、九尺許あり。
護摩堂、不動を安ず。
稲荷社。
と記されています。江戸時代には鐘があったようですが、残念ながら今はその痕跡すらありません。
なお、大猷院とは、三代将軍徳川家光のこと。日光に葬送される際、この最勝院が宿泊場所になり、その際、御打敷が下賜されたと伝えられ、仏教では、打敷は、本来下に敷くもののようですが、その時は、家光の棺を覆った、と記述されています。
また、『武蔵国郡村誌』には、
新義真言宗京都醍醐寺三寶院の末派なり、開山奝尊創建未詳。
とのみ、簡単に記述されています。
なお、『新編武蔵風土記稿』及び『武蔵国郡村誌』については、
※『新編武蔵風土記稿 全12巻、索引編』(蘆田伊人編集 校訂 雄山閣1996): 徳川幕府が文化7(1810)年~文政11(1828)年に編纂した武蔵国の地誌。各村にある山、川、寺社なども掲載され、当時の村の状況を知る上で欠かせない資料。由来が掲載されている地名もあります。(『国立国会図書館レファレンス協同データベース』)
※『武蔵国郡村誌 全15巻』(埼玉県編 埼玉県 1953-1955):明治8(1875)年の太政官布告により全国で行われた地誌編纂により、埼玉県が地理寮に提出したもの。明治初期の各村の状況がわかります。(『国立国会図書館レファレンス協同データベース』)
最勝院には興味深い点が沢山ありますので、続けて書いていきたいと思います。
後編に続く…
【最勝院】
備考:本記事は、当初2019年3月26日にエントリーしたものですが、2021年5月24日に前後編に分け更新し、本日再更新しエントリーしました。