春日部八幡神社の本殿の右手から細い道を登って行くと、春日部稲荷神社があります。今回はこの神社のこと。また、そこで自分にとって新しい発見がありました。
◆春日部稲荷神社
この稲荷神社もかなり古い神社と言われています。
と、その前に、
今更ですが、稲荷神社のことをいろいろと、
◆稲荷神社とは
稲荷神社は、八幡神社と同じく、「お稲荷さん」とか「お稲荷さま」と呼ばれ、親しまれている、いわば一番身近な神社です。全国的には八幡神社を上回る数の稲荷神社があると言われています。そして、朱い鳥居と狐が特徴的ですね。
でも、何故多く祀られいるのか、何故狐(キツネ)なのか?
などわからないこともも結構多いですよね。
そんな疑問に答えてくれるのが、こちらのブログです。
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また、狐の神は、別名「命婦神(みょうぶがみ)、命婦専女神(みょうぶとうめのかみ)」とも言われています。なお、「命婦」とは、五位以上の女官のことで、何故か狐と女官がつながっていったのかは、わかりませんが、きっといろんな説があるのでしょうね。
狐は、春から秋にかけて、山から下りて里に現れます。そして、春の稲の田植えの時期と秋の実りの時期に、現れるので、山に住む農業を守る神(作神)の使いであると考えられるようになったともいわれています。
さらに、稲荷と狐の関係は、神仏習合と「荼枳尼天(だきにてん)」の話に関係しているという説もあります。この「荼枳尼天」を篤く信仰したのは、平氏の平清盛とのことです。そして、八幡信仰は源氏。また、両方の神社とも秦氏に関係しているとか、う〜ん。
その他、狐は頭が小さくお尻が大きいという形から、瓢箪(ひょうたん)によく似ているという説もあります。そういえば、狐と瓢、字のつくりは瓜で同じですね。
いずれにしても稲荷神社は謎めいていてとても興味深い神社です。
なにしろ、狐は、五穀豊穣の神、商売繁盛の神と言われていますので、これからも変わらず大切に。
さて、前置きは、これぐらいにして、
◆春日部稲荷神社参道
今回は、正式に参道から
ここを右折→
◆御祭神・由緒・沿革・鎮座年月日
御祭神は、倉稲魂神(うがのみたまのかみ)
由緒・沿革:鎮座年月日は不詳なれども、故老よりの伝承によれば、昔、春日部氏が此の地に築城の際、氏神として祭祀し、領土安穏・五穀豊穣を祈願したものであると伝えられている。
(ふるさと春日部『春日部の神社』須賀芳郎著、1996年)
この説明板は、「ふるさと春日部『春日部の神社』須賀芳郎著、1996年」によると、
筆者【須賀芳郎】は、昭和五十五年、社殿改築・遷宮の際、氏子会長の依頼を受け、故老よりの伝承と史書の閲読を基に推察して、当社の由緒を記した。【現在社前入口に掲示】これは、『春日部』の地名から類推して記したものである。
と書かれており、どうやら、須賀芳郎氏ご自身がお書きなっ説明文のようです。
◆説明板
当神社は春日部稲荷大明神と申し上げ、ご祭神は「倉稲魂神」と申し上げます。
縁起・由緒については詳らかではありませんが、「春日部」と言う地名と、この場所より推察して当神社の由緒を記します。春日部と言う地名は、古代の雄略天皇【二十一代天皇】の期 生歴四七八年に大和朝廷の属地として定められ、「皇女春日大娘(かすがのおおいらつめすめらひめ)」の御名代部(みなしろべ)として命名された地名であります。
御名代部を統治・管理するために派遣された在庁官人がこの地に居を構えていたことが、遺跡の発掘により推測されます。
中世の時代になって、武士団が結成され、この地に住していた領主は、武蔵国荏原郡に住した本姓紀氏の一派であり、在地名「春日部」を名乗ったと言われる豪族であります。
当社の所在するこの地は春日部氏の屋敷跡であり、春日部稲荷大明神は春日部氏の屋敷神として京都伏見稲荷大社より勧請し祭祀されたものであります。創建の年代を案ずるに伏見大社は奈良時代の和銅年間とあり、それより降ること二百年位と推定されるので、平安期と思考され、およそ千百年位以前の創建と推擦する次第です。
昭和五十五年庚申六月
春日部稲荷神社
当社の総敷地面積 壱千四百六拾六坪
参考までに、伏見稲荷大社のサイトを
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◆河畔砂丘「浜川戸砂丘」
◆「盃状穴」発見!?
春日部稲荷神社参道の階段脇に古い水盤がありました。よく見ると、水盤の縁に盃状のくぼみがありました。もしかして、盃状穴?!
八丁目村新町 年号は、享保16辛亥年(1731)5月吉日でしょうか?
ところで、
◆盃状穴とは
奈良大学の通信制で知り合った三重県鳥羽市在住の友人で日本民俗学会員の橋本好史さんが送ってくれた、ご自分のことが載っている新聞記事によると、
盃状穴は、手洗い石などに硬い棒状の物で掘られた盃状のくぼみで、形状はさまざまだが、直径7㌢、深さ3㌢前後のものがよく見られる。1980年に梅光女学院大(現梅光学院大、山口県下関市)の故国分直一教授が、山口市の古墳から出土した石棺の穴に着目し、盃状穴と名付けた。
〜中略〜
全国の盃状穴は、第一人者の兵庫県加古川市の三浦孝一さん(75)のまとめで、沖縄県から青森県まで3175件が確認された。主に江戸時代から明治にかけて寺社の石に掘られたという。北海道だけが未確認となっていたが、今回の確認で全都道府県で見つかったことになる。
盃状穴は、欧州にもあり、「カップマーク」と呼ばれ、青銅器文化と関係した原始宗教の生産を願った表示と見なされている。
韓国や中国でも「生産と豊穣のシンボル」として多数見つかっており、世界史と関連した考察が求められているという。
全国各地で見られるにもかかわらず、これまで盃状穴があまり語られてこなかった理由について、橋本さんは「深夜の『丑三つ詣り』のように、穿(うが)つ行為が他人に知られると願掛け効き目がなくなるという口伝や迷信があったからではないか」と推測している。
(平成27年(2015).2.7付毎日新聞)『「盃状穴」北海道にも』
橋本さんは三重県鳥羽市にある神社の宮司さんです。
春日部稲荷神社の参道階段のすぐ脇にあるこの水盤に掘られていることから、これらのくぼみはやはり「盃状穴」の可能性が高いと確信しました。きっと参拝される方の「生産と豊穣の願い」が込められこめられたものだと思います。
◆八丁目村の盃状穴
なお、自分が確認した「盃状穴」と思われるものは、小渕にある宝暦年銘の「道標」の盃状穴です。その「道標」も八丁目村新町にありますので、八丁目村地域には、江戸時代に「盃状穴」を掘る民間信仰のようなものがあったのでしょうか。
なお、寺院や神社に参拝の時には、気を付けて見ていますが、春日部稲荷神社参道の水盤と小渕の「道標」以外では確認できていません。
春日部稲荷神社の隣は八幡公園。鎌倉時代春日部氏の屋敷があった場所です。
春日部稲荷神社では、思わぬ発見(盃状穴?)があり、少しだけ幸せな気分になりました。これもお稲荷さんのご利益なのでしょうか?!
終わり