◆気になるスポットアレコレ
当春日部八幡神社には、他にも気になるスポットがいくつかあります。また、多くの方がブログに書いていますので、少しマニアックかもしれませんがあまり目立たないスポットを中心にご紹介します。
▼手水舎(てみずや、ちょうずや)
ごく普通の手水舎です。神社に参拝の際には、心身を清めるため、まず行なう作法は手水をすることです。
そのため一番最初に訪れるのが、水盤がある手水舍(てみずや、ちょうずや)と呼ばれる場所です。今まで、手水舎を「ちようずや」と読んでいましたが、神社本庁のサイトには、「てみずや」とありました。
神社本庁のサイトには、手水の作法が掲載されていますので、参考までに、
- 右手で柄杓ひしゃくを取ります。
- 水盤の水を汲み上げ、左手にかけて洗います。
- 柄杓を左手に持ち替え、水を汲み上げ右手を洗います。
- 再び柄杓を右手に持ちかえて、左手のひらに水を受けて溜めます。
- 口をすすぎます。柄杓に直接口をつけないようにしましょう。静かにすすぎ終わって、水をもう一度左手に流します。
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▼力石
粕壁宿にある神社では、力石もよく見かけます。粕壁宿入口の東八幡神社でもご紹介しました。
この春日部八幡神社の境内では、昔、角力会(奉納相撲?)もあったようですので、その時にでも、力自慢の人たちが力比べをしたのでしょうか。
神社の「力石」(ちからいし)を見ると、江戸時代に活躍したと言われる武蔵国岩槻領三野宮村(現在の越谷市)出身の力持ち、三ノ宮 卯之助(さんのみやうのすけ)を思い浮かべます。お隣の越谷出身なので身近に感じます。今でも越谷市の埼玉県立大学付近に三野宮という地名があります。
なお、卯之助の正式な名前は「三野宮村の卯之助」が正しく、「三ノ宮」は名字ではなく通称なのだそうです。当時、庶民には名字は無かったんですね、
また、卯之助は江戸時代の力持ち番付では大関だったと言われています。そして、後には、日本一にもなりました。
そのため、地元越谷の神社はもちろん、鎌倉の鶴岡八幡宮や江戸・深川の富岡八幡宮などにも卯之助が持ち上げたと言われる力石が残っています。以前、「ブラタモリ」で視た記憶があります。
▼石灯籠
社前御神木の前にあるこの石灯籠には、十二支や『新方鎮守社』と刻まれているそうです。十二支は確認できましましたが、『新方鎮守社』文字は読めませんでした。
また、天保三年(1832)8月15日供養?とも。
▼石碑・二基
石絵馬
末社、天神社の前に高さ約二メートル・幅約一・五メートル程の自然石の「石絵馬」があります。
石碑に馬の絵が描かれているものです。もちろんほかの神社にもありますが、こちらの絵馬は結構躍動感があります。
この「石絵馬」の碑文は、粕壁宿の名主・関根次郎兵衛孝凞のもので、絵馬の上には、
春之日乃 野部之母里能下草爾 不整駒毛睦志九古曾
安政三年十一月晦日 七十三翁 孝熈 志主青木三吉
と歌が刻まれています。
安政三年は西暦だと1856年、幕末ですね。前年の秋には「安政の大地震」といわれる、江戸直下型の大きな地震がありました。武蔵国も震度5〜6の揺れだったそうです。以前のにも書きましたが、地上も地下も動乱の時代でした。
榎本武揚の篆額
また、駐車場の傍らにはこんな石碑が、
「松園敬甫翁碑」 従二位勲一等榎本武揚篆額
翁諱敬甫松園氏武蔵国粕壁之人文化五年辰正月生聖護院、下命变本山修験正大先達不動院霞下準年行事權大僧都法印號、仙乗院特許黄服蓋異數也登大峰葛城七回攀木曾御嶽廿七回維、新両部判而遷梅田村女軆雷電兩社神職補大講義翁性行篤實餘、暇習字讀書以教育児童諄々不倦闔郷頼其徳
明治一八年一月廿、七日病而卒齢七十七配野上氏先卒男四人女五人四男恭光継家為同郷社神職
明治二十六年九月門弟子相謀建此之碎巖高森敏撰併書
( ふるさと春日部『春日部の神社』須賀芳郎著、1996年)
裏面に百四十八名の名を記す。
この石碑は松園敬甫という方の顕彰の碑です。また、この石碑は駐車場の奥にひっそりと建っていますので、ほとんど誰も気が付かないと思います。
篆書を書いたのは、あの榎本武揚(えのもとたけあき)です。榎本武揚と言えば、旧幕臣で、いわゆる「五稜郭の戦い」で旧幕府軍を率いて戦ったことで知られています。
榎本武揚についてはこちらをどうぞ、
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榎本武揚〜函館ゆかりの人物伝 - 函館市文化・スポーツ振興財団
松園敬甫という方は、修験者で、小渕の不動院の「霞」に属していたようです。なお、「霞」とは、京都・聖護院を本山とする本山派が修験者を統制するための国あるいは郡単位の地域組織で、修験道のための道場のようなものだそうです。
小渕の不動院
小渕の「不動院」が出てきましたので、少し補足を。
『新編武蔵風土記稿』には、
本山派修験、京都聖護院末、関東修験年行事職大先達なり、役流山と号す。本尊不動は役行者神変大菩薩のなた作りと称す、刀斧の痕凡作にあらざること知らる、開山直参法印秀圓天文十三の年【一、五四四】二月二十九日寂す。北条氏政其外古文書を蔵す、御入国時も先例に依って年行事職元の如く命ぜられ、慶安元年【一、六四八】
寺領百石の御朱印を附せらる。今も東照宮御下知状及御書を蔵せり、祖師堂・八幡社・天神社・愛宕社・山王社・稲荷社。(ふるさと春日部『春日部の神社』須賀芳郎著、1996年)
と記されています。
小渕の不動院は江戸時代までは、関八州の修験道の総本山だったとのことですが、京都・聖護院に属するは本山派は、明治維新後の「神仏分離令」および明治5年(1872年)の「修験宗廃止令」によって、天台宗に強制的に統合されることになりました。そのため、小渕の不動院も明治末から大正初めにかけて東京・江東区南砂町に移転しました。
詳しくは、春日部市教育委員会文化財保護課・郷土資料館のブログ「ほごログ」をどうぞ、
↓↓
また、碑文には、仙乗院云々とも記されています。仙乗院は本山派の修験の寺だったようですが、廃寺になっていて今はありません。
そして、奈良の葛城山(金剛山)に7回、木曽の御嶽山に27回に登ったことや梅田の女體神社、同雷電神社との関係も刻まれています。
松園敬甫氏は、明治18年に亡くなり、四男である当春日部八幡神社の神職の松園恭光氏が跡を継いだと刻まれています。今から120年以上も前のことです。
駐車場の片隅にひっそりと建っている石碑から色々なことがわかりました。面白いですね。
それにしても、肝心の榎本武揚との接点は一体? そこが一番気になります、、、。
春日部八幡神社にあるいろいろなスポットでいろいろ愚考を重ねてみました。身近なところにも郷土の歴史を知ることが出来る“モノ”が遺っていることがわかりました。
神社って本当に面白いですね!!
終わり