更新日:2022/04/16・公開日:2019/03/01
◆問屋場跡
粕壁宿の案内板の先にある埼玉りそな銀行の前辺りが粕壁宿の問屋場跡です。もちろん今は何も残ってはいません。あるのは案内板のみ。
◆案内板
問屋場
問屋場(といやば)は、公用の旅人や荷物を運ぶ人馬を手配施設である。粕壁宿では、継送(けいそう)に必要な人足(にんそく)三五人、馬三五疋(ひき)の常備が課せられていた。この辺りは上宿(上町)と呼ばれ、人夫が集まることから、飲食店も多く月に六度の市がたった。なお、問屋場は文政九年(1826)に三枚橋(さんまいばし)に移転した。向かいの神明通りは、名主や本陣を勤めた見川家の屋敷内の通路であった。通り沿いの神明社には、同家の屋敷神といわれる見川稲荷が残っている。
※三枚橋(さんまいばし)は、少し江戸寄りにある字名。
古利根川から草刈場の田に潅漑用の水路が街道を横断していた(現在は暗渠)。その水路に架けられた橋の名三枚石橋より称えられたもので、日光道中宿村大概帳に「字三枚橋・石橋・長三尺・三間・是を自普請仕来」と記されている。橋の架けられていた所は粕壁小学校入口の「ハヤシヤ」の右脇で、三枚の石板で構築されていたので、この名があると伝えられる。(引用:ふるさと春日部『かすかべの歴史余話/粕壁地区の地名』須賀芳郎/1977年)
※見川家とは、江戸時代に粕壁宿の名主を務めた見川嘉藏(みかわ・きぞう)のことを指す。埼玉県ゆかりの偉人データベース(春日部市)によると
見川喜蔵
粕壁宿の宿役人。諱は知挙。粕壁宿名主の家に生まれ、天明3年(1783)浅間山の噴火による降灰で生活に困り飢えた人々に粥を煮て施したり、宿内の地主を説いて雑穀を提供させた。また、寛政3年(1791)古利根川が決壊したため自費で古堤の上に盛り土をして堤を増築。この堤は喜蔵堤といわれる。(埼玉県ゆかりの偉人データベース/春日部市)
神明通りを駅方向にいくと、江戸時代に見川家の屋敷稲荷があった粕壁神明社があり、毎年暮れの12月14日に酉の市が開催され、多くの参拝客で賑わいます。
なお、見川家の墓所は寺町の成就院にありますが、見川家自体は当地には見当たりません。
また、埼玉りそな銀行春日部支店は、6月13日に、駅近くのスーパーホテルの一階に移転開店します。跡地はどうなるのでしょうか?