京都鞍馬寺に掲げられている言葉が今とても心に響きます。
光に向かって
天を覆う雲は厚くとも、
太陽は常に大空に在る。
風が来て雲を払えば、
黄金の光が燦然(さんぜん)と輝く。
人の心に吹きすさぶ八風を、
苦悩の雲を吹き払う風として、
真実を観る智慧の光を迎えよう。
智慧の光が輝くとき、宇宙生命に生かされている万象を観る。
あなたも私も、花も鳥も、みな共に生かされているこの世界。
万象が織りなすいのちの相(すがた)、
宇宙に懸かる金色のいのちの網羅、
遠い昔から受け継いで来たいのちの絆、
私もその中の一つのいのち、
たがいに手を繋ぎ響き合ういのち、
あなたも私も、樹も水も、みな共に厳然と生かされている。
慈愛の温もりに抱かれ、智慧の光に照らされて、
豊かな活力に満たされて、
今ここに生かされていることの嬉しさと有り難さ、
この歓びと感謝の輪を広げよう。
あなたも私も、あの人もこの人も、たがいに光り合い照らし合う、
明るい未来を信じ希い(ねがい)ながら、
1日1日を宝石のように大切に生きよう。
光に向かって
天を覆う雲は厚くとも、
太陽は常に大空に在る。
風が来て雲を払えば、
黄金の光が燦然(さんぜん)と輝く。
人の心に吹きすさぶ八風を、
苦悩の雲を吹き払う風として、
真実を観る智慧の光を迎えよう。
智慧の光が輝くとき、宇宙生命に生かされている万象を観る。
あなたも私も、花も鳥も、みな共に生かされているこの世界。
万象が織りなすいのちの相(すがた)、
宇宙に懸かる金色のいのちの網羅、
遠い昔から受け継いで来たいのちの絆、
私もその中の一つのいのち、
たがいに手を繋ぎ響き合ういのち、
あなたも私も、樹も水も、みな共に厳然と生かされている。
慈愛の温もりに抱かれ、智慧の光に照らされて、
豊かな活力に満たされて、
今ここに生かされていることの嬉しさと有り難さ、
この歓びと感謝の輪を広げよう。
あなたも私も、あの人もこの人も、たがいに光り合い照らし合う、
明るい未来を信じ希い(ねがい)ながら、
1日1日を宝石のように大切に生きよう。
今ここに生かされていることの嬉しさと有り難さ・・・
まさにですね。
そして最後の「1日1日を宝石のように大切に生きよう」
本当にそういう気持ちを忘れずに
1日1日を過ごせるようにしたいです。
中学高校を仏教系の学校で過ごした私もこういうお話をよく聞きましたが
今になって、ようやくその意味の断片を理解できるようになりました。
「一隅を照らす一灯であれ」
という言葉がとても印象に残っています。
ちいさな光だけど、お互いに照らしあい
それがたくさん集まれば、きっと大きな光になるのですよね。
「宝石のように生きる」というのは私も響きました。
子どもの頃から望んでいた人生の目標でもあって、「同じだ!」と
うれしかったことを思い出しました。
思い出させてくれた大事な言葉達を、初めてこの文を目にした時以上に
今はリアリティーを持って大事に胸にしまおうと思います。
私はキリスト教を教育に取り入れた高校で
朝の礼拝でよくお説教を聞きました。
「地の塩、世の光たれ」
が仏教のそれとよく似ています。
結局のところ神様というのはどこの宗教であっても、究極の教えはほぼ同じですね。
「奇麗な心で人間同士争わず共に助け合い仲良く愛と感謝を持って暮らしなさい。」
もっとも、それが一番難しいからこそ教義なん
でしょう。