天国と地獄、生と死。
それらは対極に存在しているのではなく、限りなく遠回りしながら
その向こうで繋がっているという。
人生も、魂も繰り返し続く道を進んでいるけれど、同じ軌道を
取りながらも全く同じ道はなく少しずつ良くなっている。
だから、産まれてくる時もお祝いだけれど
死ぬことも新しい道への出発のお祝いだと。
死の扉を開いたら、遥か遠い次の誕生までの魂の旅が始まっている。
そう考えれば、体を持たない魂の世界で今生の私と同じように
頑張っているのだから、供える言葉は
「頑張ってる?私も頑張ってるよ。一緒にがんばろうね。」だ。
ちょっと先に行ったあの子に、もうそろそろそう言ってあげても
いいかもしれない。
それらは対極に存在しているのではなく、限りなく遠回りしながら
その向こうで繋がっているという。
人生も、魂も繰り返し続く道を進んでいるけれど、同じ軌道を
取りながらも全く同じ道はなく少しずつ良くなっている。
だから、産まれてくる時もお祝いだけれど
死ぬことも新しい道への出発のお祝いだと。
死の扉を開いたら、遥か遠い次の誕生までの魂の旅が始まっている。
そう考えれば、体を持たない魂の世界で今生の私と同じように
頑張っているのだから、供える言葉は
「頑張ってる?私も頑張ってるよ。一緒にがんばろうね。」だ。
ちょっと先に行ったあの子に、もうそろそろそう言ってあげても
いいかもしれない。
「お大事に!」って、言ってしまいそうです。
キリスト教ではそのような言葉は使わない。
現世を終え、「天に召される」のは幸せなことだと捉えているのですよね。
体はなくなっても、きっと魂はどこか他の場所で存在し続けていると信じていたいです。
大切な人にはやはり天国で苦しみから解放された幸せを感じて欲しいと思ってしまいます。
良い人にはそれなりのご褒美があってもいいですよね・・・。
あっという間に感じます。
悲しみは癒えても、寂しさは変わりませんね。
見つからないんじゃないか?
と心配になります。
でも、心の中ではどこかでみんな亡くなった
家族が迎えに来てくれると信じている所が
あります。
だから日本人には本当の無神論者はいない様
な気がします。
地獄だと思うのは、自分の心が苦しいから。
辛い、苦しいという思いが、天国を地獄に変えているのではないでしょうか。
私はそう信じます。
なんか胸にしみました。
自分が亡くなった後、そう言ってもらえたら
私もうれしいんじゃないかなと思うのです。