MEMORANDUM 今日の視点(伊皿子坂社会経済研究所)

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#2744 未熟の代償

2025年02月14日 | 日記・エッセイ・コラム

 最近、テレビでニュースやワイドショーなどを見ていると、世の中全体が随分と「子供っぽくなったな」と思うことがよくあります。

 例えば、若者たちの間で「炎上」目当てに迷惑動画をSNSに上げることが流行ったり、ネットで集められた「闇バイト」の若者たちによる粗暴な犯罪が頻発したり。政治の世界で言えば、政治とはほぼ関係ない暴露系Youtuberが若者の支持を受けて国政選挙で当選したり、選挙のポスター掲示板に(合法的に)裸の女性やペットの写真が貼られたりと、例を挙げれば枚挙にいとまがありません。

 一時は、そんな風に感じるのは「自分が歳をとったせい」で、世の中の動きについていけなくなったからかな…とも思ったのですが、こうした「事件」に対するメディアや世論の反応が総じてあまりにもシンプル(というか表層的)なところを見ると、一概に自分のせいとばかりも言えないような気がしてなりません。

 どうやらそれはこの日本だけの傾向ではなく、米国トランプ大統領の言動や、プーチン、習近平、そして(戒厳令を発令した)隣国韓国や(ウクライナに兵士を送った)北朝鮮の指導者たちの動きについても、「どうしてそうなる?」と思わされることが多くなりました。

 世の中の動きがそれだけスピードアップし、それだけ「刹那的になった」ということなのかもしれませんが、これまで当たり前とされてきた「正しさ」や「常識」が覆され、「余裕」とか「バッファー」というようなものが(時代とともに)どんどん失われているのを感じるところです。

 そんなことを漠然と考えていた折、神戸女学院大学名誉教授で思想家の内田樹(うちだ・たつる)氏が、昨年12月16日の自身のブログ(「内田樹の研究室」)に『性善説と民主政の成熟』と題する一文を掲載していたので、(少し長くなりますが)参考までにその指摘を小欄に残しておきたいと思います。

 2024年の暮れ近くなって、日替わりで(選挙にまつわる)政治的事件が続いている。 公選法が想定していないトリッキーな行動を次々ととる候補者が現れ、都知事選も県知事選もカオス化したけれど、(それ自体は)改めて公選法が性善説に基づいて設計されているという厳粛な事実を前景化してくれた点では功績があった…と、内田氏はこの論考に綴っています。

 (話はちょっと飛びますが)氏によれば、私たちの社会制度の多くは「性善説」に基づいて設計されているとのこと。喩えて言えばそれは田舎の道にある無人販売所みたいなもので、「りんご5個で300円」と書いてあれば、普通の人はりんごを取って代価を置いておくようなものだということです。

 でも、たまに「システムの穴をみつけて悪用する人間」が出てくる。あるだけのりんごを持ち去り、ついでに置いてある代金も盗んでゆく彼らは、「性善説を信じているやつらはバカだ」と高笑いするのだろうと氏は言います。

 しかし、りんご農家がこれに懲りて店番を置いたり防犯カメラを設置したりすれば、そのコストは商品価格に転嫁され、次は「りんご5個500円」に値上がりしたりして、結果、リンゴや代金を持ち去った者の取り分はその他の人が分担することになる。

 この例えで何を言いたいかと言えば、制度の穴をみつけて自己利益を増やす人間を「スマートだ」とか「クレバーだ」とか誉めそやす人は、結局、自分も彼らに盗まれていることに気がついていないということ。盗まれるだけでは業腹だから、「オレも今日から盗る側になる」と皆が我先に「制度の穴」を探すようになれば、今度は社会制度をすべて性悪説で作り直さなければならないということです。

 そこに顕現するは、「市民全員が潜在的には泥棒である」ことを前提に暮らす社会であり、何よりも全く価値を生み出さない「防犯コスト」を全員が負担しなければならない高コストの社会。そんな生産性の低い、気分の悪い社会に私は住みたくないと氏はしています。

 あらゆる制度は性善説で制度設計した方が圧倒的に効率がよいし、生産性が高い。何より性善説で作られた制度は、利用者たちに向けて「善であれ」という遂行的な呼びかけを行ってくれるということです。

 翻って、今度は民主政の話。民主制は不出来な制度で、なにしろ有権者の相当数が市民的に成熟していないと機能しないと氏は話しています。市民の過半が「子ども」だと、民主政は破綻する。だから、民主政は市民の袖を捉えて、「お願いだから大人になってくれ」と懇請するということです。

 普通、そんな親切な制度は他にはない。帝政も王政も貴族政も、市民に向かって「バカのままでいろ」としか言わない。それは、統治者ひとりが賢者であって、あとは全員愚民である方が統治効率がよいからだと氏は説明しています。なので、(残念ながら)独裁者はほぼシステマティックに後継者の指名に失敗する。独裁制は、いずれ「統治者もバカだし、残り全員もバカ」というカオスに陥り、短期間のうちに崩落するというのが氏の見解です。

 統治機構の「復元力」を担保するためには、一定数の賢者が社会的な層のどこかに必ずいて、もしも統治者が不適切な場合には(平和裏に)交替できる仕組みが最も適切であることは誰にでもわかると氏はしています。

 そして、そういう意味で言えば、民主政がその「最も適切な制度」であることもまた自明となる。しかし、それをうまく機能させるためには、「一定数の賢者」を特定の場所に特定の方法で育成しプールしておかなければならないというのが氏の指摘するところです。

 当然のことだが、強制や脅迫や利益供与を以て人を成熟させることはできない。 私たちの社会制度の多くが性善説で設計されているのは、その制度そのものが私たちに向かって「性、善であれ」と懇請してくるからだと氏は言います。

 そこで話を戻せば、社会から懇請されるそうした「遂行的メッセージ」を聴き取れない者(つまりリンゴや代金を持ち去っていく人)は、邪悪というよりもむしろ、単に「未熟」なだけ。(本人は気づいていないだろうが)この社会を構成する一人前のメンバーとして成熟していないだけだと内田氏はここで断じています。

 氏によれば、制度は「生き物」とのこと。それが人間をどう成熟させ、世界をどう住みやすくするために作られたものなのか、誰もがたまには思量すべきだと話す氏の指摘を、私も興味深く読んだところです。