10月2日の日本経済新聞の連載コラム「大機小機」は、大統領選挙を間近に控えた米国において、民主主義の統治システムが機能不全に陥っているのではないかと指摘しています。(「綻ぶ民主主義の統治機構」2020.10.2)
欧米の先進資本主義諸国で社会の「分断」が大きな問題として浮上し、「民主主義の危機」が叫ばれるようになっていると、同コラムはその冒頭に記しています。
これまでのところ、「民主主義には大いに問題がある。ただ他のどんな制度よりましだ」という、先人たちの名言以上の回答は得られていないと筆者は言います
とすれば、問題は民主主義それ自体にあるのではなく、民主主義の統治・運営システムにあるのではないか。迫ってきた米国大統領選挙関連の報道からそう考えざるを得ないというのがこのコラムにおける筆者の認識です。
米国の大統領選は、歴史的な経緯を踏まえ、各州で行われる有権者の投票で選ばれた選挙人の数で決まる間接選挙の形をとっている。各州はそれぞれのルールで選挙を行い、選挙管理の方法もそれぞれ。票の数え間違いは珍しくないし、不正の入り込む余地もあるといわれると筆者は説明しています。
そうした中、トランプ大統領は選挙結果がたとえ自分に不利でも、大差でなければ選挙に不正があったとして敗北を認めない作戦に出る可能性があると報じられている。
しかし、これでは大統領選挙を繰り返しながら、争いの絶えない新興民主国家のアフリカの一部の国々と変わらないではないか。旧態依然とした選挙制度には多くの欠陥があるといわざるを得ないというのが筆者の見解です。
米国が世界の超大国となった現在、米国の大統領が世界最大の権限と影響力を持っていることを疑う者はいない。なので、今回の選挙の帰趨に日本の国民としても大きな関心を払わざるを得ないと筆者は言います。
状況によっては世界の行方をも左右しかねない合衆国の大統領の決め方が、(現職大統領が「ちゃぶ台返し」できるような)信頼性のない、いい加減なものでよいのかという指摘です。
さて、こうしてコラムは米国における現在の「統治システム」の限界を厳しく指摘していますが、9月29日に行われたテレビ討論会をニュースなどで見ていて感じたのは、統治機構ばかりでなく米国の民主主義自体がかなり劣化しているのではないかという懸念です。
討論会ではバイデン氏や司会者の発言を何度も遮って一方的に持論を主張したり、相手を誹謗中傷したりするトランプ大統領の姿ばかりが印象に残る。一方、対峙するバイデン候補も「うそつき」とか「最悪の大統領」などと大統領の発言にリアクションするばかりで、有効なカウンターパンチを浴びせられたようには見えませんでした。
もはやこれは「討論」ではなくて、相手をののしり合うことを競うショーのようなもの。テレビで見ている分にはプロレスのようで面白いかもしれませんが、見終わった後に「何かが残る」ような内容だったとは思えません。
いまどき、小学校の学級委員の選挙だってもうすこしレベルが高いのではないか…そう感じさせるようなテレビ討論会に、米国の有権者たちはどう反応したのでしょうか。
あれほどの場面を目の当たりにさせられても、「われらがトランプはよくやった」と評価する声も数多く上がっているという報道などを耳にするにつけ、自らの国の将来だけでなく、世界の未来を決する「核のボタン」を彼に預けようという気持ちになるのは理解に苦しむところです。
世界のリーダーたる米国(の民主主義)に、なぜこうした子供じみた状況が生まれているのか。
政治が身近になったと言えばそれまでかもしれませんが、それにしても「好き」だとか「嫌い」だとか、「得をする」だとか「損をする」だとか、「正義」や「理性」を置き忘れ感情のままに相手を罵る(いい歳をした大人の)姿は、見苦しくて見ていられるものではありません。
もっとも、(ここまで書いてきてふと思ったのですが)こうした傾向は米国の指導者たちに限ったことではないのかもしれません。
国会での口汚いヤジの応酬に加え、「桜を見る会の名簿は破棄してしまったから再調査はしない」といった言い訳や、モリカケ問題で表沙汰となった(あまりに分かりやすい)国有地の払い下げ、官僚による公文書の改ざんやあからさまな官邸への忖度など、気が付けばわが国でも同じような子供じみた理屈がまかり通るようになっています。
記録の保全や説明責任は民主主義が健全に機能するための必須条件である事を考えれば、確かに「民主主義を機能させる統治の仕組みに(まずは)監視の目を光らせる必要がある」というコラムの指摘を、私たちは重く受け止める必要があるのでしょう。
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