五高の歴史・落穂拾い

旧制第五高等学校の六十年にわたる想い出の歴史のエピソードを集めている。

五高では18年10月13日出陣学徒壮行会が開かれている

2014-03-05 05:41:17 | 五高の歴史
▽五高では昭和18年10月13日出陣学徒壮行会が開かれている。学生・生徒の徴兵猶予が廃止で決まった翌日の13日講堂で「出陣学徒壮行会」が開かれている。贈られる生徒は20歳以上に徴兵適齢期に達している文科系の50人であった。添野信校長の壮行の辞 竹原教授の理科代表の挨拶、続いて報国団生徒代表(総務幹事)の桟熊獅が答辞を読んだ。~天高く雲流る。悠久の天地を他に世界史は躍動する・・家門に立ち見送らむ........この詳細は五高70年史に詳しく記載されている・桟熊獅は内田健三・平松守彦に続く文科代表の三代目総務幹事、
H22,11月のS17入学の仲間3人で合田茂、広瀬隆一、山下善睦の4人で学徒出陣座談会を開き、軍隊、軍人をどう思っていたのか、徴兵猶予が解除になったときの報を聞いた時の感想、入隊時の感想等貴重な報告を行っている。

理科学生には徴兵猶予停止措置は取られなかったため中村敏郎のように血書で嘆願書を書き自ら退学届を出して入営した生徒もあった。

□「習学寮」でも夜に壮行晩餐会が開催されている。加田勉惣代を始め7人の寮生が学徒出陣している。寮誌の最後のページに「出陣に当たりて」と題する遺書を8枚残している。そこには剛毅木訥を中心生命とする寮風の発展・振興を願い「習学寮は夢の国、夢の実現する国なり、習学寮を永劫に捨つるなかれ、汝がうるわしき夢を…]と綴っている。
以下学徒動員で出征した五高生徒連

◎加田勉S17,4文甲二入学、馬術部主将、18年習学寮惣代、学徒出陣が決定するや寮生出陣者7名を代表して寮日誌に長文の遺書を記している。12,1四日市歩兵連隊に入営、19,5前橋予備士官学校へその後比島十四方面軍教育隊編入、20,1,31日付け見習い士官、教育隊卒業後6月19日ルソン島ビンキャン、パレテサクラサク北約20キロで戦死・陸軍少尉

◎森一郎17年3月文甲二卒ラグビー部東大出陣式で学生総代として答辞・宣誓を行っている。大竹海兵団、兵科予備学生四期、公開学校を経て海軍少尉、戦艦大和艦長付として乗り込み沖縄水上特攻に参加する。20,4,7日九州南方海域にて大和轟沈その第一波にて水没戦死、海軍中尉

◎工藤紀正S17,3文甲三卒、18,12の学徒出陣で海軍へ飛行予備学生十四期、教育訓練後海軍少尉,元山海軍航空隊第二七生隊として第五航空艦隊菊水二号作戦に参加、20,4,12日南西諸島海域で特攻戦死 海軍大尉

◎平野俊雪14年文乙入学柔道部、16・3退学18年中央大学から陸軍航空隊へ幹部候補生九期
19,9少尉、第六航空隊第十九振武隊として20・4・29知覧から沖縄方面へ特攻出撃・戦死

◎森興彦大連一中から17年4月文乙入学。柔道部インターハイ出場し好戦する、18,12、五高から学徒出陣、習志野戦車隊から特別操縦見習い士官を志願して宇都宮飛行学校へ、台湾二一教育飛行隊(佳冬)仝第三錬成飛行隊(彰化)を経て20・2少尉、4月誠第119飛行隊(桃園)を編成第八飛行師団に編入,4・28日沖縄方面へ特攻出撃、久米島西方の戦闘で戦死陸軍大尉。

◎出田慎次郎18・9・文甲一卒18,12学徒出陣、特別操縦見習い生を志願して19,6熊谷飛行学校に入校、同年9月頃南方へ行くと言う同君と門司駅で遭遇した同級生もあり南方に転属後、陸軍茨城特務機関に配属、終戦後の10月17日スマトラ島リオ州で宣撫工作中に戦死する。陸軍中尉

◎山中忠信S17,3文乙卒ボート部東大文学部倫理学科18,12学徒出陣で海軍へ兵科予備学生4期武山海兵団の基礎課程を終え19年7月神奈川県藤沢の海軍電測所へ移る。8月盲腸炎から腹膜炎を併発し戸塚の海軍病院で手術するも手遅れで死亡する8月15日付けで海軍少尉「きけわだつみのこえ」の電測学校時代の手記がある。

◎浜田義道 S199文乙卒19年9月文乙卒東大文学部国文科19,10陸軍特別甲種幹部候補生として熊本陸軍予備士官学校入校、同12月11日別府十文字原陸軍演習場で演習中急死 満20才