五高の歴史・落穂拾い

旧制第五高等学校の六十年にわたる想い出の歴史のエピソードを集めている。

昭和19年から20年へかけての様子

2014-03-06 04:58:50 | 雑件
弥生三月と言うのに寒い、また全くの冬の様相である。俺の部屋は十度の時は寒いときであるが今朝は十一度しかない。暖房を入れてもなかなか暖ったまらない。

今朝も戦時中の五高の様子を続ける昭和十九年になると熊本市民でも米軍の空襲に戦き逃げまどい防空壕へ避難の想い出があるだけである。

俺の小学校への入学は昭和十九年の四月であった。小学校へ入学した最初の一年間はどのようにして通学し生活したか殆ど記憶がない。小学校は家の前にあったのだが、ただ開戦以来丸丸三年を経過して、太平洋の彼方此方の島々からの特に印象に残っているのはサイパン島玉砕をはじめとして日本軍の撤退、全員玉砕とのラジオ放送があっていたことがかすかな記憶に残っている。

昭和二十年になると小学校二年生になっていたはずであるが、この一年間の小学校の記憶は全く残っていない。しかしこんなことだけはかすかな記憶がある。この時期は分散教育と称して付近に大きな養鶏所があったのでそこの鶏舎を借り受け何回かその鶏舎で授業を受けた記憶が残っている。

二十年七月一日には夜の熊本市への焼夷弾攻撃で市街地は丸焼けであった。
歴史をひも説いて見れば撤退でなくして転進であり、一般国民はこんな田舎が毎日空襲されている戦争に勝つわけがないじゃないかと全ての人が思っていたのではないだろうか?

当時の家の前の小学校校舎は軍隊の駐屯宿営所になっていたためか続く八月十日には小学校校舎への焼夷弾攻撃があって、其の為に校舎は丸焼けになってしまった。当時から米軍の情報網は発展していたと見えこの田舎の片隅の小学校の校舎だけを丸焼けにしていた。