五高の歴史・落穂拾い

旧制第五高等学校の六十年にわたる想い出の歴史のエピソードを集めている。

昭和19年4月入学緒方道彦について

2014-03-29 05:51:19 | 五高の歴史
3月28日熊日の教養講座も今日を入れて後3回になってしまった。話しは昭和19年4月に理乙に入学された緒方道彦氏にスポットを当て話しが行われた。昨日のメモをそのまま記載してみる。平成20年4月17日死去82才であった。五高時代を大切にした人であった。・・・・・共同作業をしながら死去する直前まで

修猷館時代は剣道が強く一高入学であるが一次試験には合格しているが、慶応大学の予科に入り同予科を退学し、福岡の予備校から五高に入っている。オックスフォード大学動物主任から九州大学へ呼び戻されている。健康科学センターの設立でそのセンター長を務めている。退官後は久留米大学の付属に入って付属の校長を務めている。平成五年名誉校長になっている。
緒方家の一族として生理学者として早く解放され残念であった。緒方洪庵を祖先に持ち緒方大造、緒方竹虎等の学者一門であった。

一高の受験を考えたが父は一高へ行くなら金は出さない五高であれば出そうと言ったとか、そのため五高に入学したものである。当時の理系は決戦教育措置で学校はストップの状態であった。
激化する空襲でこのことは県警史には詳しく記載されている。立田山方面から侵入し市街の外周地区に照明弾が落とされ市中一帯は真昼の明るさを呈した状態であった。

五高のの天井板は剥ぎ取られ健軍工場の物品の保管場所になっていた。健軍三菱工場の手帳には行程は班単位でという事で和田先生の話では学校主導の班編成で作業は順調なる作業であった
この時期五高生で工藤は出撃し、また森一郎は戦艦大和に特攻し部下を守って徳の島に爆沈した。
昭和20年4月入学予定の一年生は如何したのか?入学は一月八日中学校の書類選考だけで学校状況から口頭試問があって三十一日合格発表が行われている。中学校卒業したままで五月に仮入学が行われている。理乙の先輩の話として浪人生中心の生活であった。

七月一日に入学式、七日に宣誓式皇国精神は旧制高等学校の生き甲斐であるという事で七月十一日から授業が開始されている。一日の空襲で市内の大半が焼失し県庁はじめとして482人の死者、千二百戸の家が焼かれた。緒方さんの話から高橋重光は下宿の保証人宅から不発弾があることを聞き、処分して遣ろうと防火用の水槽にほおり込んだところ爆発し爆死した。絶対かかることは出来ないと言われていたのに残念である。高橋は常に白はかまで独特の足音をなびかせていたので彼が歩いてくる感じさえする。

吉村滋の話小倉工廠の日田工場へ民宿し地下工場の作成に励んでいた。裸電球の下何を遣っているかわからない作業をしていた。熊中の生徒は御国のため五高教官をうらやましく思い、教官の威力を思ったと・・。

八月九日に長崎に原爆投下動員された五高の生徒は松山地区に居たが学校側は心配していたが被害は出ていない。長崎は祈りの地である。造士館の連中は原爆の被害を受けている。長崎は祈りの地ゆえ原爆追悼の碑だけでは・・・・浦上天主堂も残されて居なかったのだろうか・賀来龍三郎氏の想い出では三週間壕の中で生活した。新型爆弾は企業理念を提ばつしたものであった。

一軒だけ青いかぼちゃが生っている傷痍軍人の家で案内を頼むと老婆が出て来て食料を貰いにくる九重各なしであった。日田の町は大地が揺らぎ天と地がぐるりと回転する感じであった。広瀬の話国鉄再建は一週間してからと言うことである。

八月十五日の五高では東光会を中心に尊王義勇軍が組織された。警察史によれば郷士熱が盛んで当時の石坂繁市長の自宅に集合して十六日藤崎八幡宮に参拝と言う段取りであった。これはかっての神風の乱を模した学生グループの集まりであった。荒木精史の檄文の下決行部隊は230人が集まり平井知春を大将に計画された。五高では東光会の右翼団体を中心として決行前夜が繰り広げられた。

緒方道彦の活躍があって福岡福証寺に集合したが東光会の友人の懸命の説得で未然に防がれた。
防諜尾上章は昭和18年専習主権を、菊池峯三郎は黒石原の吉田幸一の・・大麻唯男の義理の妹・・が助けている。菊池神社の裏山に10日間籠城して25日朝解散式を行っている。