●中野孝次のプロフイール
大正14年1月1日生まれ、千葉県市川市の大工・中野末吉の3男東大文学部卒、同大学院修了、ドイツ文学者、評論家、作家、国学院大学文学部教授、その間同大の在学研究員として一年間ドイツ留学 国学院大の学生部長を歴任し、精力的に著作活動を進める。評論「実朝考]エッセイ「ブリュ―ゲルへの旅」自伝的小説「麦熟るる日に」「ハラスのいた日々」「清貧の思想」「暗殺者」等の著作多数がある。
趣味の世界で囲碁が趣味で武宮正樹の囲碁風「宇宙流」に魅せられ囲碁に関するエッセイを残している。死後出版された「ガン日記」には年譜が入って生活の日常の事実を書いていた。
★中野が旧制高等学校を入学志願に情熱を燃やした足跡をたどると・・
昭和14年3月市川尋常高等小学校高等科卒業、4月横須賀の海軍航空廠技手学校に入学6月に退学する。大工の跡継ぎを希望する親の反対を押し切り独学で高等学校入学者資格試験の合格を目指した。
昭和16年11月高等学校高等科入学資格試験に合格する。千葉市内の中学校で一人検定試験を受け高等学校入学目標があこがれで漢文と国文は満点の評価で試験官に「よく独りでここまでやったね」とほめられた。
昭和17年4月受験雑誌で知った新設予備校に入学し本棚には「学生と生活」「三太郎日記」や「哲学以前」「善の研究」などの教養書、文学書を最上段に飾っていた。この時代はガダルカナルの敗退等があり予備校でのひそひそ話は何時徴用されるかの不安の話であった。
昭和18年3月には松本高等学校を受験するも不合格で一次試験には合格したが二次の口頭試問は不合格、高校生スタイルではないと言うことであった。この時友人になった鹿児島の人は4浪して20才であった。
中野は旧制高等学校へのあこがれが一段と強くなり入学へ情熱を燃やしていた。
士官候補生の幼馴染みの友人は書籍を見て「貴様は小我を捨てて大我に生きることを考えたことがあるか。自我だ、教養だ、人格主義だなどと小さな自分に執着しとってどうなるんだ」――そして戦争中の日本の学徒出陣から半年間の短縮授業等はいずれも「畏くも開戦の大詔が発せられて陛下が米英を相手に戦いを宣せられた以上、命令は全て陛下の大御心から発せらんだぞ。貴様それでも命令だの強制だのいうのか」。---中野は言いたいことがいくらもある気がしたが、陛下と言う言葉が出た以上もう議論にはならないことがわかっていた・・・・・。
●中野が受験に失敗した昭和18年4月に五高に入学した生徒たちは文科甲類112人19年9月卒113人文科乙類39人19年9月卒40人 理甲166人同112人
理乙67人同92人であった。20年に五高に入学した人は次のような方々であった。福島譲二、守住有信、工藤晃、樋口俊二、城野楯夫、永井善助、中田正雄、蟻田功、東勝利等があった。
大正14年1月1日生まれ、千葉県市川市の大工・中野末吉の3男東大文学部卒、同大学院修了、ドイツ文学者、評論家、作家、国学院大学文学部教授、その間同大の在学研究員として一年間ドイツ留学 国学院大の学生部長を歴任し、精力的に著作活動を進める。評論「実朝考]エッセイ「ブリュ―ゲルへの旅」自伝的小説「麦熟るる日に」「ハラスのいた日々」「清貧の思想」「暗殺者」等の著作多数がある。
趣味の世界で囲碁が趣味で武宮正樹の囲碁風「宇宙流」に魅せられ囲碁に関するエッセイを残している。死後出版された「ガン日記」には年譜が入って生活の日常の事実を書いていた。
★中野が旧制高等学校を入学志願に情熱を燃やした足跡をたどると・・
昭和14年3月市川尋常高等小学校高等科卒業、4月横須賀の海軍航空廠技手学校に入学6月に退学する。大工の跡継ぎを希望する親の反対を押し切り独学で高等学校入学者資格試験の合格を目指した。
昭和16年11月高等学校高等科入学資格試験に合格する。千葉市内の中学校で一人検定試験を受け高等学校入学目標があこがれで漢文と国文は満点の評価で試験官に「よく独りでここまでやったね」とほめられた。
昭和17年4月受験雑誌で知った新設予備校に入学し本棚には「学生と生活」「三太郎日記」や「哲学以前」「善の研究」などの教養書、文学書を最上段に飾っていた。この時代はガダルカナルの敗退等があり予備校でのひそひそ話は何時徴用されるかの不安の話であった。
昭和18年3月には松本高等学校を受験するも不合格で一次試験には合格したが二次の口頭試問は不合格、高校生スタイルではないと言うことであった。この時友人になった鹿児島の人は4浪して20才であった。
中野は旧制高等学校へのあこがれが一段と強くなり入学へ情熱を燃やしていた。
士官候補生の幼馴染みの友人は書籍を見て「貴様は小我を捨てて大我に生きることを考えたことがあるか。自我だ、教養だ、人格主義だなどと小さな自分に執着しとってどうなるんだ」――そして戦争中の日本の学徒出陣から半年間の短縮授業等はいずれも「畏くも開戦の大詔が発せられて陛下が米英を相手に戦いを宣せられた以上、命令は全て陛下の大御心から発せらんだぞ。貴様それでも命令だの強制だのいうのか」。---中野は言いたいことがいくらもある気がしたが、陛下と言う言葉が出た以上もう議論にはならないことがわかっていた・・・・・。
●中野が受験に失敗した昭和18年4月に五高に入学した生徒たちは文科甲類112人19年9月卒113人文科乙類39人19年9月卒40人 理甲166人同112人
理乙67人同92人であった。20年に五高に入学した人は次のような方々であった。福島譲二、守住有信、工藤晃、樋口俊二、城野楯夫、永井善助、中田正雄、蟻田功、東勝利等があった。