3月と言うのに今朝も異常に寒い、俺の部屋は10度であれば寒いと思っていたが9度しかない寒いはずである。残っている五高の帳簿から想い出を引き出してみたい。資料の中には会計や図書、教務、庶務等々の帳簿が多岐に亘り残っているが長い年月を経過し、大多数が虫害等を受けて判読さえ難しくなっている。しかしこれらを開いてみるとその時代の情勢、世情、そして後の世との関わり合いが読み取れるのも面白い。
一例を挙げれば俺が熊大職員として採用されたのは昭和35年1月会計係であったのでそのため会計に関する帳簿は特に興味が深かった。昭和15年度の支出内訳簿の中を見れば、約30年後の熊本大学の御用商人的な存在であった地元企業の芽生が見える。戦前から熊本には大企業はなかったので、国、地方公共団体等の、所謂官公庁の出先機関に如何にして出入りしようかとその存在をアッピールすることに努力している様子が伺える。大きな民間会社もなく納入先は官公庁に限られていた。この時代に、医大・五高・工等高業等への物品の納入を行なっていたもののほとんどが戦後にかけての熊本市の世情に合致して会社を大きくして行ったことが伺える。
時代は昭和から平成になりそれらの地元企業は全国規模の大手資本に押されて、吸収されたり合併されたり、またはチエ-ン店となっている。時の流れと言えば実も蓋もないことであるが、今ではこの時代の熊本の企業商店名の片鱗さえ見出すことは殆ど不可能になってしまっている。
一例を挙げれば俺が熊大職員として採用されたのは昭和35年1月会計係であったのでそのため会計に関する帳簿は特に興味が深かった。昭和15年度の支出内訳簿の中を見れば、約30年後の熊本大学の御用商人的な存在であった地元企業の芽生が見える。戦前から熊本には大企業はなかったので、国、地方公共団体等の、所謂官公庁の出先機関に如何にして出入りしようかとその存在をアッピールすることに努力している様子が伺える。大きな民間会社もなく納入先は官公庁に限られていた。この時代に、医大・五高・工等高業等への物品の納入を行なっていたもののほとんどが戦後にかけての熊本市の世情に合致して会社を大きくして行ったことが伺える。
時代は昭和から平成になりそれらの地元企業は全国規模の大手資本に押されて、吸収されたり合併されたり、またはチエ-ン店となっている。時の流れと言えば実も蓋もないことであるが、今ではこの時代の熊本の企業商店名の片鱗さえ見出すことは殆ど不可能になってしまっている。