熊日教養講座「日本ファシズムと武夫原頭」の講座が開催されたので聞きに行った。小山先生の講座も残り3回になってしまった。ここでも月日の経つのが早いことが思い知らされる。今朝も異常に寒い俺の部屋は10度であれば寒いと感じていたのであったが今朝は8度しかない寒いはずであるそのためか暖房を入れてもなかなか温まらない。
金曜日の8時半からは水前寺で東洋整体を遣ってもらって身体のメンテナンスを行っているのでこの熊日講座は午後1時半からであるので上の郷まで一旦帰り昼食を済ませた上でのまたの出直しである。月2回の講座であるが出席者は五高に関心がある人ばかりのようである。十人も居ろうか?講座の内容は「中野孝次らにみる昭和18年~19年に五高の門をくぐった生徒たち」についてであった。
話の内容については続習学史に記載されていることが主なることであった。ここでは昭和十八年当時の文部大臣橋田那彦についてそのプロフィールを見る。
橋田邦彦 明治十五年三月生まれ。日本で実験生理学を提唱するなど、実験生理学者・医学者として名を上げ、近衛文麿、東條英機内閣時代に文部大臣に就任している。昭和二〇年九月十四日にA級戦犯として指名された。そのため服毒自殺をしている。
話の内容についてはレジメを中心としてぼつぼつ纏めて行くことにしているが今朝は昭和18・19年に五高の門をくぐった生徒達のまず一としてまとめたものである
太平洋戦争の戦局悪化は、国家の将来を託す高等教育の世界に大きな影響を与えた。修業年限年齢の短縮、半年短縮、文科系学徒の徴兵猶予廃止と「学徒出陣」「学徒勤労動員」そして高等学校令中改正である。これにより五高でも昭和15年4月の入学組、昭和16年4月の入学組は半年間の繰り上げ卒業となりそれぞれ17年9月、18年9月には学校から送り出された。さらに18年4月に入学した生徒は2年間の高等学校生活で20年3月にはあわただしく卒業して行った。
高等学校中改正は昭和18年1月に勅令38号で発令された第一条には「高等学校は皇国の道に則りて男子に精深なる程度に於いて高等普通教育を施し国家有用の人物を錬成し大学教育の基礎たらしめるを目的とす」とうたわれ、第7条第一項に明記されていた高等科教育は「三年」から「二年」に短縮された。今回の改正は大正七年十二月の法令を高等学校令以来の大きな変革であった。すなはち人格教育は大学に入ってから行うからと言うことであった。
当時の文部大臣橋田邦彦は18年4月の高等学校長会議で「教育の根本目的が皇国民の錬成にある」とした上で「学徒の修業年限を早く終わらせ、若き力を国力増強国運の進展に盡さしめることは、国家不断の要請である」と訓示した。高等学校3年を2年にした理由については高等学校は大学の基礎教育であると言うことを強調している。五ヶ条の御誓文に応ぜられたのが国是であるとした未完の大器の方針が全く否定され、個人主義的な自由主義の弊害が共産思想へつながっている。
昭和18年4月に専検資格で高校入試に挑み昭和19年4月に五高に入学した中野孝次にスポットをあて当時の高校生徒の姿を追ってみる。
学徒出陣・・昭和18年9月に学徒出陣命令。東京では10月21日明治神宮外苑競技場で関東地方在住の男子官公私立大学、高等専門、師範学校77校、学生2万人の「出陣学徒大壮行会」が開催された。五高では18年10月18日五高の出陣学徒壮行会文科系50人が行われた。「習学寮」でも10月13日7人の壮行晩餐会が行われている。その中の2人は一年生であった。
●中野孝次のプロフイール
大正14年1月1日生まれ、千葉県市川市の大工・中野末吉の3男東大文学部卒、同大学院修了、ドイツ文学者、評論家、作家、国学院大学文学部教授、その間同大の在学研究員として一年間ドイツ留学 国学院大の学生部長を歴任し、精力的に著作活動を進める。評論「実朝考]エッセイ「ブリュ―ゲルへの旅」自伝的小説「麦熟るる日に」「ハラスのいた日々」「清貧の思想」「暗殺者」等の著作多数がある。
趣味の世界で囲碁が趣味で武宮正樹の囲碁風「宇宙流」に魅せられ囲碁に関するエッセイを残している。死後出版された「ガン日記」には年譜が入って生活の日常の事実を書いていた。
金曜日の8時半からは水前寺で東洋整体を遣ってもらって身体のメンテナンスを行っているのでこの熊日講座は午後1時半からであるので上の郷まで一旦帰り昼食を済ませた上でのまたの出直しである。月2回の講座であるが出席者は五高に関心がある人ばかりのようである。十人も居ろうか?講座の内容は「中野孝次らにみる昭和18年~19年に五高の門をくぐった生徒たち」についてであった。
話の内容については続習学史に記載されていることが主なることであった。ここでは昭和十八年当時の文部大臣橋田那彦についてそのプロフィールを見る。
橋田邦彦 明治十五年三月生まれ。日本で実験生理学を提唱するなど、実験生理学者・医学者として名を上げ、近衛文麿、東條英機内閣時代に文部大臣に就任している。昭和二〇年九月十四日にA級戦犯として指名された。そのため服毒自殺をしている。
話の内容についてはレジメを中心としてぼつぼつ纏めて行くことにしているが今朝は昭和18・19年に五高の門をくぐった生徒達のまず一としてまとめたものである
太平洋戦争の戦局悪化は、国家の将来を託す高等教育の世界に大きな影響を与えた。修業年限年齢の短縮、半年短縮、文科系学徒の徴兵猶予廃止と「学徒出陣」「学徒勤労動員」そして高等学校令中改正である。これにより五高でも昭和15年4月の入学組、昭和16年4月の入学組は半年間の繰り上げ卒業となりそれぞれ17年9月、18年9月には学校から送り出された。さらに18年4月に入学した生徒は2年間の高等学校生活で20年3月にはあわただしく卒業して行った。
高等学校中改正は昭和18年1月に勅令38号で発令された第一条には「高等学校は皇国の道に則りて男子に精深なる程度に於いて高等普通教育を施し国家有用の人物を錬成し大学教育の基礎たらしめるを目的とす」とうたわれ、第7条第一項に明記されていた高等科教育は「三年」から「二年」に短縮された。今回の改正は大正七年十二月の法令を高等学校令以来の大きな変革であった。すなはち人格教育は大学に入ってから行うからと言うことであった。
当時の文部大臣橋田邦彦は18年4月の高等学校長会議で「教育の根本目的が皇国民の錬成にある」とした上で「学徒の修業年限を早く終わらせ、若き力を国力増強国運の進展に盡さしめることは、国家不断の要請である」と訓示した。高等学校3年を2年にした理由については高等学校は大学の基礎教育であると言うことを強調している。五ヶ条の御誓文に応ぜられたのが国是であるとした未完の大器の方針が全く否定され、個人主義的な自由主義の弊害が共産思想へつながっている。
昭和18年4月に専検資格で高校入試に挑み昭和19年4月に五高に入学した中野孝次にスポットをあて当時の高校生徒の姿を追ってみる。
学徒出陣・・昭和18年9月に学徒出陣命令。東京では10月21日明治神宮外苑競技場で関東地方在住の男子官公私立大学、高等専門、師範学校77校、学生2万人の「出陣学徒大壮行会」が開催された。五高では18年10月18日五高の出陣学徒壮行会文科系50人が行われた。「習学寮」でも10月13日7人の壮行晩餐会が行われている。その中の2人は一年生であった。
●中野孝次のプロフイール
大正14年1月1日生まれ、千葉県市川市の大工・中野末吉の3男東大文学部卒、同大学院修了、ドイツ文学者、評論家、作家、国学院大学文学部教授、その間同大の在学研究員として一年間ドイツ留学 国学院大の学生部長を歴任し、精力的に著作活動を進める。評論「実朝考]エッセイ「ブリュ―ゲルへの旅」自伝的小説「麦熟るる日に」「ハラスのいた日々」「清貧の思想」「暗殺者」等の著作多数がある。
趣味の世界で囲碁が趣味で武宮正樹の囲碁風「宇宙流」に魅せられ囲碁に関するエッセイを残している。死後出版された「ガン日記」には年譜が入って生活の日常の事実を書いていた。