五高の歴史・落穂拾い

旧制第五高等学校の六十年にわたる想い出の歴史のエピソードを集めている。

五高生の断髪について再考する

2014-03-09 05:38:01 | 五高の歴史
三月一日付で赤煉瓦通信が発行された。一月の中旬ころではなかったろうか?それに掲載するので何か書いてくれと依頼されたので「五高生の断髪」として纏めた文章を提出しておいた。

一寸年配の方々であれば戦時中の学生・生徒は坊主頭であったと言う事はご存知であるが、どのような経過で坊主頭になったのかその辺りの事情まではあまりご存知でないように感じている。これなど五高記念館に週一回ではあるが、三〇年近く通勤しているのでその背景等については詳しく説明できる。

先に書かされたさわやか大学の広報紙では編集者は筆者に一言の断わりもなく何の権限で勝手に文書を校正して、抹消したり付け加えたりしたのか、そのため今後は絶対に書かないと決めてしまったがここではそんなこともなかった。さわやか大学の広報紙では殆ど消してしまい結局自分の書いたことは冒頭と最後の結論ばかりになってしまっている


五高生の断髪について・・明治・大正・昭和と続いてきた五高生の長髪は昭和十四年になると世情が長髪など許さず、所謂丸坊主の時代に突入することになった。兵隊は丸坊主であったので総てが兵に倣ったのであろう。五高生の風体については長髪にマントそして高下駄・腰には汚れたタオルをぶら下げた姿は記憶に残って在られる方もあるかと思われる。

この長髪禁止はこの昭和十三年ごろから始まっている。長髪等については軍事教練上軍人の眼からは不都合と見做されていたもので、記録に残っている処では昭和十四年の天長節の渡鹿練兵場の分列式には長髪者数名が列外に出され注意を受けている。しかしこの頃の配属将校は五高生徒に理解がある人で、昭和十七・八年頃のようには長髪もあまり白眼視されてはいなかった。

断髪の禁止は文部省より下っている。加えて軍関係からこれまでの高校生の特徴であった長髪の運命が注視され長髪に対する白眼視、甚だしい敵視もあり天長節には閲兵式上長髪者列外に出され注意されることもあった。このような情勢のもとで長髪は禁止され龍南に於いては自発的に積極的に断髪して、これを契機として清新の気を以て今後の寮生活に当たるようになった。

当時二年の田代友樹氏の談を記載すれば「この日三年生は全員断髪して出席した。髪を切るか否かを議選とする委員会に三年生だけがはじめから結論を自分たちの頭で示して出席した点において二年生から反対の意見が続出した。当時の総代の態度強硬に対し三年生間にまとまった断髪の意見に従わない者は相当に睨まれるのを覚悟しなければならなかった。この一つとして記名投票によることも議論が喧しくどう片付いたかわからないが結局断髪には大方仕方がなく賛成だが、この委員会においての総代の態度が悪かったという結論になり全寮生断髪する殊に決議され我々二年生の長髪組一同は新市街に出かけて惜髪の痛飲会行った後森山で記念撮影して帰った」
寮委員会においての決議
時局に対する充分かる覚悟を持つこと
寮自治に関する徹底する観念を把握すること
断髪を決行すること

二寮日誌から「決議文は朗読された。寮にとっての一大転換はなされたのだ。50年の歴史は今日、この日から新たなる一頁をめぐったのだ。炎炎たるファイヤーは恰も天を焦がさんとしている。坊主頭がーその顔が真紅だ。」このようにして断髪問題は一担解決している。