通年動員体制下の五高では17年4月入学の3年生は19年9月の卒業を前に5月には文科3年は八幡製鉄へ、理科3年は三菱長崎造船所へ18年4月入学組も二年生文科が三菱長崎へ。9月には二年生理科の一部が佐世保海軍工廠へ動員された。広石正樹は郊外寮の暮らしは五時起床であったと言っている。皆勤労動員され佐賀高校、松山経専などは夜の9時まで仕事であったと言う。
元広島地検検事正の話、昭和20年卒「三菱長崎造船所に動員され、長崎市内の校外寮「小ヶ倉寮」で集団生活を送った。毎朝5時起床し朝食後寮から4キロ離れた港まで歩きそこから船に乗り対岸にある造船所に向かった。体力のあるグループは艦船のリペット打ち、他のグループは火薬を舳先に詰めた一人乗りの特攻艇「04艇」4トンを製造する作業に従事した。
戦局は日増しに逼迫の度を加え上級生が出征したり動員され寮を去った。寮運営は総代が3年から2年生へさらには1年生にと一年間で三回も変わることになり1年生だけの寮が誕生することになった。上級生も悲痛な声を出して習学寮を去って行った。上級生が残寮する制度は五高だけであったが、ここで初めて五高の寮が1年生だけになったのである。
橘高弘昌 昭和20年卒の話 総代の期間は19年5月から9月まで「かかる時勢に至って曖昧なる高校生活を送るよりむしろ高校閉鎖を叫ぶ。先輩が伝えし、伝統を滅ぼさんよりもである。学園に在りて而も学園にあらず。身は一職工なりとは何が為の学問ぞ,修養ぞ・・・・。
★寮では廊勉が流行し自習室の点灯時間の延長が申し入れられている。自習室の点灯時間が午前〇時まで延長されその後も廊下の終夜灯の下で哲学書や文学書を読みふけったと言う。戦時中とはいえ卒業生の中には「教員の多くは昔ながらの背広姿であった。教場では軍国主義の戦争の話をする人はいなかった。敷地内にはおっとりした空気が漂い大学進学のための学問尊重の空気が残っていた。
★昭和19年4月入学の1年生も20年1月には期限なしの学徒動員になり学校内にも学校工場が出現した、健軍工場では陸軍爆撃機「飛龍キ67」が製造され五高生が作業に従事した。
長野吉彰の話「部品の流れを管理する工程管理の仕事をした」
★生徒たちにも徴兵年齢に達した順に召集令状が届くようになった。中野は五月末に栃木県宇都宮連隊へ、三菱の動員工場の総務部で召集令状を受け取り早退し一人で校外寮をさった。長野は六月に熊本西部24連隊に入営した。アンドレジードの「狭き門」を持って行った。戦時下の青春は心の支えになったのは五高生の誇りと書物だった。
以上
元広島地検検事正の話、昭和20年卒「三菱長崎造船所に動員され、長崎市内の校外寮「小ヶ倉寮」で集団生活を送った。毎朝5時起床し朝食後寮から4キロ離れた港まで歩きそこから船に乗り対岸にある造船所に向かった。体力のあるグループは艦船のリペット打ち、他のグループは火薬を舳先に詰めた一人乗りの特攻艇「04艇」4トンを製造する作業に従事した。
戦局は日増しに逼迫の度を加え上級生が出征したり動員され寮を去った。寮運営は総代が3年から2年生へさらには1年生にと一年間で三回も変わることになり1年生だけの寮が誕生することになった。上級生も悲痛な声を出して習学寮を去って行った。上級生が残寮する制度は五高だけであったが、ここで初めて五高の寮が1年生だけになったのである。
橘高弘昌 昭和20年卒の話 総代の期間は19年5月から9月まで「かかる時勢に至って曖昧なる高校生活を送るよりむしろ高校閉鎖を叫ぶ。先輩が伝えし、伝統を滅ぼさんよりもである。学園に在りて而も学園にあらず。身は一職工なりとは何が為の学問ぞ,修養ぞ・・・・。
★寮では廊勉が流行し自習室の点灯時間の延長が申し入れられている。自習室の点灯時間が午前〇時まで延長されその後も廊下の終夜灯の下で哲学書や文学書を読みふけったと言う。戦時中とはいえ卒業生の中には「教員の多くは昔ながらの背広姿であった。教場では軍国主義の戦争の話をする人はいなかった。敷地内にはおっとりした空気が漂い大学進学のための学問尊重の空気が残っていた。
★昭和19年4月入学の1年生も20年1月には期限なしの学徒動員になり学校内にも学校工場が出現した、健軍工場では陸軍爆撃機「飛龍キ67」が製造され五高生が作業に従事した。
長野吉彰の話「部品の流れを管理する工程管理の仕事をした」
★生徒たちにも徴兵年齢に達した順に召集令状が届くようになった。中野は五月末に栃木県宇都宮連隊へ、三菱の動員工場の総務部で召集令状を受け取り早退し一人で校外寮をさった。長野は六月に熊本西部24連隊に入営した。アンドレジードの「狭き門」を持って行った。戦時下の青春は心の支えになったのは五高生の誇りと書物だった。
以上