Speak Low (Jazz time)・WALTER BISHOP JR.
足を踏み外しそうな狭い階段を上がってドアの前に立つと、店内の大音量がもれ聴こえてきた。
ランプだけの薄暗くて細長い店内で、押し曲げた身体を揺すっている客が、じろっと新入り客の夏原を見た。新宿にあったジャズ喫茶のD。
ここに行くときは一人で行かなければならない。夏原は一度友人と二人で入った時、会話を始めた途端、早速店員が口に人差し指を立てて注意をしに来た。周囲の客も非難の目で睨むのだ。
これが正統派ジャズ喫茶の掟なのかと、若い頃の夏原は痛感したものだった。
たまたまその時かかっていたのが、ウォルター・ビショップ・ジュニアの『スピーク・ロウ』だった。グッド・タイミングと言うよりも、ここでは会話そのものがタブーだったのだ。
たしかに壁面の何ケ所かには会話禁止の貼り紙があり、まさに日本のジャズ喫茶の典型がここにあった。
ジャケット写真の印象だけが頭にこびりついていた。タイトルやミュージシャン名すら憶えていず、後年レコード店で写真の記憶だけをたよりに同じレコードを探した時、見当違いのものを買ってしまった。
門外漢の頃は多かれ少なかれこんなことがあるものだ。それもまた悪くはないものだと夏原がひとり苦笑していた時、カラヤンが入って来た。
「マスター、ニヤニヤして気持ち悪いじゃない」
「ちょっと昔の失敗談を想い出していたもんだから」
仕方なく夏原はその事を話して、レコードを取り出して見せた。
これ幸いとばかりにカラヤンが喋り始めた。
「実はボクも同じ事をこの前やっちゃったんです。恥ずかしくて人に言えないもんね」
「何を間違えたの」
「言い訳するんじゃないけど、ボクはクラシックならそこそこだけど、ジャズはまだヒヨッコですから」
カラヤンは頭をかきかき告白した。
「ボクもマスターと同じでジャケット写真のうろ覚えだけで、ジャッキー・バイアードの『ハイ・フライ』を探していたんだ。あった、と思って喜び勇んで帰ったらこれが全然違っていたんです」
「エリック・クロスの『ワン、ツウ、フリー』だね」
「さすがマスター、それそれ」
「両方とも競駕レースのブレ写真だからね。あれ実は同じ写真なんだ。撮影した人がデザインも手掛けていてね。レイアウトが違っていても間違いやすいんだ」
「やっぱりね」
カラヤンは夏原の説明を聞いて、胸のつかえが降りたような気がした。
レコードはB面最後の『スピーク・ロウ』になりラテン調のイントロが流れた。そしてリズミカルで切れ味の良いアドリブへと展開していく。
大草原で蒸気機関車を操る機関士が、清澄な風を満身に受けるが如くの爽快感だ。曲名に似つかわしくない軽快なピアノが、トリオの持ち味を存分に引き出す。
夏原の店は、スピーク・ロウとは縁遠い。
あの時代の求道的スタイルは、自分好みではなかった。お客に緊張感を与えるのはジャズの本義ではないと、かねがね夏原は思っていた。
今は自宅で誰もが音楽に浸り聴き込むことができる時代で、ジャズ喫茶の役目はおのずと違って来ているはずだ。
相槌を求めようと語りかけると、当のカラヤンはカウンターで俯せになり夢のなかにいた。
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