’Round About Midnight At The Cafe Bohemia (Blue Note)・KENNY DORHAM
「なんて寂しい音なんだろう」
ヒゲ村がポツンと言った。
ケニー・ドーハムの、もの悲しくも心の襞に染み入るかのような音色は、哀感に訴えるものがある。抑制がきいて、感傷的な気分に誘うトランペットだ。故に本国よりも日本でのファンが多い。
「このドーハムを聴くと、連鎖的に想い出す出来事があるんだ」
夏原がまだ二十歳そこそこの時、目にした話を始めた。
「東京といったって、その頃住んでいたのは北の場末で、そこに小さな商店街があったんだ。今でもあるけど当時より更に寂れているらしい」
終わったレコードをくるりと回転させて、裏面をかけると再び続けた。
「その入り口付近で何時の頃からか、トランペットを吹いていた若者がいたんだ。丁度街灯が点く頃に、その下で吹き始めた。昔の街灯だから金属の傘がついていて、それがスポット・ライトになってなかなか効果的だった」
「今でいうストリート・ミュージシャンだね」
「そうなんだ。でも、その頃はあまり見かけなかったものだ」
夏原は、記憶をたどるような表情になり続けた。
「ジャズ・ナンバーをよく演るんだ。その音がドーハムのもつ悲哀感と共通するものがあって、いい味を出していた。帰宅の途中、つい立ち止まってよく聴いていたんだ」
「もしかしたら、誰か名のあるプロの下積み時代かもしれないね」
「ヒゲ村の発想らしいね。頭には不釣り合いのパナマ帽をかぶっているんだ。いかにも親父のお古って感じだったよ」
「ああ、判ったよ」
「そうなんだ。4、5曲吹いた後、かぶっていた帽子を裏返して聴衆に差し向けるんだ。それを見せると散って行くので、いくらも貰えなかった。まだ、慣れていなくて手際がよくなかったんだ。そして苦笑いしながらも、また黙々と演奏を始めるんだ」
「とてもボクなら無理だね。一日で店仕舞だよ」
ヒゲ村が嘆息まじりに言った。
「実際、店仕舞していたら難を逃れられた」
夏原は奥歯を強く噛んで上顎部を動かした。厭な事を想い出した時によくやる癖で、ヒゲ村には先刻承知だった。
「ある日、いつもの場所で人だかりがしているので、分け入ってみると例の若者がうずくまっていたんだ。口が腫れ上がって血が流れ、脇に転がっていたトランペットが捩じ曲げられていた。この辺の地回りをやっているゴロツキにやられたんだと、横にいたおじさんが興奮気味に話した。若者に聞くとかすかに言葉を出して頷くだけだった。すぐに近くの公衆電話で救急車を呼んだ」
「どうしてそんなひどい事をされたの」
ヒゲ村が、早くその先を聞きたいとばかりに口を挟んだ。
「顔見知りの居酒屋のおかみさんが来て、演奏を聴きたいというお客がいるというので一緒に行ったんだ。終わって店を出た時、運悪くその連中に見つかったらしい。顔を貸せと路地に連れ込まれ、誰の許可でやってんだと言うので、そんなものは関係ないと反発したら、こっぴどくやられたそうだ。その時、救急車が来たのでそこまでしか聞けなかったけどね」
終わって回転したままのレコードが、ノイズを繰り返していた。
それを止めようともせず、夏原はポツンと言った。
「あの若者は今でもトランペットを吹いているのだろうか」
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