ひろのギターで息抜き

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明治維新 坂本龍馬のスポンサーは、誰❓ 1/2

2020-07-30 23:54:47 | 日記

明治維新

TPP「特定秘密指定も」 内閣府副大臣 政府見解を修正 2013年11月2日 朝刊 http://www.tokyo-np.co.jp/article/politics/news/CK2013110202000158.html 不正選挙と、偽国会議員=酷怪議員たちのやっていることが非道すぎるので、基本のおさらい フリーメーソン-28 南北戦争と明治維新 フリーメーソン 2008/1/5 http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/620.html#readmore 明治維新は、スコットランド系フリーメーソンの武器商人トーマス・グラバーの存在なしには、成しえる事はありませんでした。

 
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織田信長の戦国時代に、既に銃が勝敗を決める武器として認知されていたにも関わらず、徳川時代になると刀に逆戻りしますが、世界の軍事史でも武器が逆行するのは極めて珍しい事であります。 これは、徳川が銃の怖さを知っていた為で、徹底的に取り締まっていたのです。 徳川時代の鎖国とは、諸大名が欧米から銃や火薬を輸入しないように、徳川が管理していたもので、実際は徳川の独占貿易と呼ぶべきであります。 実際、長崎は開かれていたのですから。 1865年4月に、アメリカの南北戦争が終わり、売れ残った小銃などが大量に上海市場に出回っていました。  これを仕切っていたのが、ロスチャイルド系の総合商社であるジャーディン・マセソン商会で、上海に事務所を構えていました。 悪名高き阿片を、中国人たちに売りつけていたのもこの会社です。
 
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グラバーは、ジャーディン・マセソン商会の長崎代理人であったケネス・マッケンジーの下で「商会事務員」として勤務した後、長崎で独立し、同時にジャーディン・マセソン商会、デント商会、サッスーン商会という大商社の長崎代理店も兼ねることにもなりました。 これらの商社は全て、中国への阿片貿易で巨万の富を築き上げた会社です。 当時、日英通商条約の第三条に、 「軍用の諸物は、日本の役所の外に売るべからず」 とあり、表向きにはジャーディン・マセソン商会は、武器を薩長に売ることは出来ませんでした。 そこで、ジャーディン・マセソン商会は、代理人のグラバーを巧妙に使い、グラバーは物々交換という形で、この条約の網の目をかいくぐりました。 グラバー商会は、長州から米・麦・塩などでの支払いを認め、それをジャーディン・マセソン商会に持ってゆき、それを薩摩藩が買い上げるというもので、薩摩藩とイギリスは既に武器取引を行っていた実績があり、気心が知れていたために、この三角貿易は成立したのです。 グラバーは、この取引に坂本龍馬を代理人として使い、この貿易に絡んで仲の悪かった薩摩藩と長州藩を結んだのが、坂本龍馬がつくった貿易商社「亀山社中」であるのです。
 
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坂本龍馬は、徳川幕府側の勝海舟と親密な関係にあり、幕府側への工作、また幕府を欺く目的には適していたことと、グラバーも日本でビジネスをするなら、表向き徳川幕府を敵に回すのは得策で無いからです。 亀山社中は、1865年5月に結成され、7月になると長州藩の井上馨と伊藤博文が長崎でグラバーと会って、ミニエー銃4300挺、ゲベール銃3000挺の購入契約を結んでおり、龍馬が最初に買い付けた7800挺は会社が設立されて、わずか3ケ月後の事でした。 この時、亀山社中の実務、及び資金提供を行ったのが小曾根英四朗で、1864年2月に長崎に来た勝海舟から龍馬を紹介されています。 商売に関して、ど素人の坂本龍馬が、会社設立後わずか3ケ月で大きなビジネスができたのは、ジャーディン・マセソンとグラバー商会、そして薩摩藩、長州藩の間で段取りが全て出来上がっていたからであります。 明治維新の英雄である坂本龍馬は、ロスチャイルドがバックに控えるジャーディン・マセソン商会、そしてその代理人であるグラバーの操り人形であったと言う事ができると思います。 巨大資本を持ち武器商人でもあったロスチャイルド、ジャーディン・マセソン商会、グラバー商会が裏にいるからこそ、薩摩藩・長州藩、そして徳川幕府も、しがない脱藩浪人の坂本龍馬に一目置かざるを得なかったのです。 そして、黒幕の思い通りに動かなくなった龍馬は、彼らにとっては用無しで、残された運命は抹殺。  私の推測に過ぎませんが、彼らはフリーメーソンつながりで、イギリス・オランダ・フランス・アメリカは組んで(実際1865年5月 「四国共同覚書」を作成しています)、欧米のワンパターンである植民地の統治法である、「自分たちは双方につき、仲間割れを起こさせる」という作戦で、日本国内の国力を弱めた後で、植民地化する予定、また戦争の長期化による武器ビジネス拡大予定だったのに対し、坂本龍馬の公武合体思想、及び秘密を知りすぎたところが問題視され、刺客を向けられたのではないかと考えております。 もちろん、明治新政府のメンバーたちは、彼らの手下となって地位を得た人達ばかりですから、龍馬暗殺の実行犯を知っていても、闇に葬り去る事は簡単であったと思います。 フリーメーソン-29 サッスーン財閥 フリーメーソン 2008/1/8 http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/621.html#readmore
 
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David Sassoon (1792 – 1864) サッスーン財閥は、18世紀にメソポタミア台頭したユダヤの富豪家族で、オスマントルコ治世には財務大臣を務めるほどの政商となっていました。 この一族 に生まれたデヴィッド・サッスーンは、バグダッドに生まれ、インドに進出、1832年に阿片の利権を求めて、ボンベイに移住しました。  彼は、上海を中心に中国北部を支配したフリーメーソン組織「イングランド系北支地区大結社」の首脳の一人でありました。  当時は、イギリスが1773年からインドでのアヘン専売権を武力で獲得し、東インド会社の貿易を通じて、中国にアヘンを売りつけ、アジアから銀を巻き上げる麻薬貿易により、ロンドンのシティに莫大な富をもたらしていた時代でした。 そして、1842年のアヘン戦争に敗北した中国は、香港をイギリスの植民地とする敗戦条約に署名をしなければならなくなり、同時に上海などいくつかの港を開き、イギリス領事館を置くことに同意させられました。 イギリス最大の銀行である HSBC(香港上海銀行)は、こうしてアヘン貿易で得たお金で、1868年に創られたものであります。 「阿片王」 デヴィッド・サッスーンは、1864年にこの世を去っており、HSBCはデヴィッドの5男のアーサー・サッスーンが最大の株主となり、香港上 海銀行は設立されました。 その出資者は、サッスーン一族がリーダーとなり、ベアリング商会、ジャーディン・マセソン商会、ロスチャイドに関係する役員 で構成されていました。 デヴィッドの長男は、アルバート・アブダラ・サッスーンといいますが、彼はインド西岸にはじめてドッグを建設し、その名も「サッスーン・ドッグ」を足場に海運事業を興しており、当時イギリスの風刺画に彼は、「インドのロスチャイルド」と称されていました。 しかし「偶然」{「」は引用者)と言うものは恐ろしいもので、アブダラの息子エドワード・サッスーンの妻の名はアリーン・ロスチャイルド、何と本当のロスチャイルド家の娘と結婚したのです。 その後も、この両家は複雑に婚姻関係を結び、中国とインドで悪いことばかりしていたのです。 サッスーン一族は、アヘンで莫大な富を築く一方で、わが国の片岡物産が代理店となっているイギリス紅茶の総元締めとしても知られました。  紅茶と麻薬は、同じ場所の畑で栽培されていたのです。 我々が呑気に飲んでいるイギリス紅茶の裏側では、人権を無視され家畜の如くムチ打たれるインドの人々と、アヘンで廃人同然にされた多くの中国の人々がいた事を忘れてはなりません。 日本でなじみのあるサッスーンといえば、神戸市北野町にある異人館、サッスーン邸がありますが、これは実際に居住していたユダヤ系シリア人のデヴィッド・ サッスーンの名をとったもので、現在は結婚式場になっています。 
 
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名前は同じですが、最初にお見せした写真のデヴィッドではありません。  女性の方なら、サッスーンと聞けば、安室奈美恵が宣伝する、ファッション界でヘアースタイリストとして有名なヴィダル・サッスーンを思い起こすと思います が、ヴィダルの息子が神戸のサッスーン邸に住んでいたデヴィッド・サッスーンで、先祖は「阿片王」のデヴィッド・サッスーンです。 ヴィダル・サッスーンHP  http://vidal.jp/top.html フリーメーソン-30 ジャーディン・マセソン商会 フリーメーソン 2008/1/12 http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/622.html
 
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ジャーディン・マセソン商会のロゴ
 
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ウィリアム・ジャーディン[William Jardine] 
 
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ジェームズ・マセソン[James Matheson] ジャーディン・マセソン商会は、元東インド会社の船医でマニアック商会の共同出資者であるスコットランド出身のユダヤ人ウィリアム・ジャーディンと、同じくスコットランド出身のユダヤ人で、カルカッタで貿易商として独立し、マニアック商会の共同出資者であったジェームズ・マセソンにより、1832年に中国のマカオに設立された貿易商社で、主なビジネスはアヘンと紅茶で、東インド会社後期の利権をめぐって、サッスーン財閥と激しく争っていました。  その後、アヘン戦争が終わると、1941年に本社を香港に移しています。 明治維新の功労者で、フリーメーソンでもあるトーマス・グラバーが長崎に設立した  「グラバー商会」 は、このジャーディン・マセソン商会の代理店でありました。 サッスーン財閥と激しく争ったジャーディン・マセソン商会ですが、1877年に、ジャーディン一族と結婚したファミリーとしてとケズウィック[Keswick]という人物が現れ、サッスーン=ロスチャイルド連合との和解を申し出て、このアヘンにまみれ、悪いことばかりしている2つの会社は手を組むことになりました。 そうして、このジャーディン一族のウィリアム・ケズウィック[William Keswick]は
 
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サッスーン一族(ロスチャイルドと親戚)が最大株主であるHSBC(香港上海銀行)の取締役として迎えられ、そうして、ジャーディン家・マセソン家・ケズウィック家・ロスチャイルド家・サッスーン家は複雑に婚姻関係で結ばれていきました。 大英帝国のヴィクトリア女王の時代に、アヘン戦争は起こりましたが、その莫大な利益により、その富を取り扱う銀行が必要になりました。 1864年、太平天国が滅亡し、メーソン・ロッジが上海に林立した年、ロンドンで植民地協会が設立され、その4年後、同協会は、英国王室の後ろ盾によって、王立直轄植民地協会と名を改め、この王立直轄植民地協会によって創立された金融機関が、HSBC(香港上海銀行)であります。 出資者は、デビッド・E・サッスーン商会、エヴリン・ベアリングのベアリング商会、ウィリアム・ジャーディンとジェームズ・マセソンのジャーディンマセソン商会、そしてロスチャイルド人脈の役員によって構成されているバークレイズ銀行であり、全員が高位フリーメーソンのメンバーであったのです。 東インド会社の蛮行が世界の非難を浴び、正式に東インド会社は消滅しますが、名を変えてその利権は、HSBC(香港上海銀行)、サッスーン財閥、ロスチャイルド財閥、ジャーディン・マセソン商会などが引き継いでいったのであります。
 
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↑ここにリンク 少し、話は飛びますが、アメリカ大統領は以前はハーバード大学出身者で占められていましたが、最近ではブッシュ大統領はじめエール大学のスカル&ボーンズ[Skull and Bones]出身者が幅を利かせています。  このスカル&ボーンズを創設したのが、エール大卒業生のウィリアム・ラッセル[William Huntington Russell]と
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アルフォンゾ・タフト[Alphonso Taft]ですが、このウィリアム・ラッセルのいとこ[Samuel Russell]が、中国のアヘン戦争の引きがねとなる世界最大のアヘン密輸企業のジャーディン・マセソン社と手を組んでいた、ラッセル・アンド・カンパニーの経営者であります。
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あの名門エール大学も、その資金は中国のアヘンの利益から得ていたのです。
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ジャーディン・マセソン商会は、超高級コニャック「ヘネシー」を販売し、日本では「ホワイトホース」の輸入業者として知られていますが、あのマンダリン・ホテルGrもジャーディン・マセソン商会が運営しているものです。 1963年に、香港に拠点を置くイギリス系の大手総合商社・ジャーディン・マセソン商会のヘンリー・ケズウィック[Henry Keswick]会長の指導の元、
 
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当時イギリスの植民地であった香港のセントラルにオープンした「マンダリン香港(現在のマンダリン・オリエンタル香港)」が始まり、その後社名をマンダリン・インターナショナル・ホテルズと改名し、1974年には、タイのバンコクにある有名ホテル、「ザ・オリエンタル・バンコク」を買収し、1985年に現在のマンダリン・オリエンタルホテルグループの社名に改名しました。 現在、13カ国に21(約8,000室)のホテルを展開し、シャングリ・ラ・ホテルズ&リゾーツや香港&上海ホテルズと並び、アジアを代表する高級ホテルチェーンとして欧米でもその名が知られており、2005年12月2日には日本初進出となるマンダリン・オリエンタル東京が日本橋にオープンしています。 ロスチャイルドグループであるLVMH(ルイ・ヴィトン・モエ・ヘネシ-)の洋酒販売部門は、元ジャーディン・マセソンとダルモア蒸留所の合弁洋酒会社(ジャーディン・ワインズ&スピリッツ)からジャーディンが合弁から離脱し、LVMH傘下となり、MHDディアジオ・モエ・ヘネシーという会社になったものです。 LVMH(ルイ・ヴィトン・モエ・ヘネシー) http://wave.ap.teacup.com/renaissancejapan/29.html#readmore また、明治維新で伊藤博文、井上馨ら長州5傑(Choshu Five)が、
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グラバーの仲介で、イギリスに密航しロンドン大学に留学に行きましたが、そのときの船はジャーディン・マセソンのもので、彼らを迎えたのはジェームス・マセソンの甥であったヒュー・マセソンでした。 このように、明治維新はフリーメーソン、ジャーディン・マセソン商会、サッスーン財閥、ロスチャイルド財閥と深く関わっているのです。

18年の眠りから目覚めたコンディション抜群のマツダ・コスモスポーツL10B型 そのオーナーが抱く

2020-07-30 23:46:46 | 日記

「乗るというより、飛ぶ感じ」。

このクルマが発売された当時に添えられていたキャッチコピーである。マツダ・コスモスポーツは、世界初の「ロータリーエンジン」を搭載した量産車として登場。内壁に傷が発生するロータリー特有の欠陥「チャターマーク」を、高強度カーボンにアルミを浸透させてより強度を持たせた「アペックスシール」で克服、量産化を実現させた。

ボディサイズは全長×全幅×全高:4140x1595x1365mmと、車高が低く流麗なスタイリング。総排気量491cc(×2)の「10A型ロータリーエンジン」は最高出力110馬力を誇り、0-400m加速を16.3秒(後期型は15.8秒)で駆け抜けた。

今回出会ったオーナーの個体は、1968年にマイナーチェンジされた後期型となる。前期型と比べて特徴的なのはフロントグリルのデザイン。開口面積がより広くとられている。ボディカラーは純正色の赤が保たれていた。月並みな表現だが「まるで新車」のようなコンディションだ。それしか適切な表現が見当たらないほどの美しさを放っている。まさに時代を超えて“飛んで”きたのだろうか。これだけのコンディションを保つためには相当の苦労があると思い、まずは日頃のメンテナンスについて伺った。

「このクルマは1969年式のマツダ・コスモスポーツ(L10B型)、もともとは父の愛車になります。私は現在43歳です。この個体は、私が生まれる前から我が家にあり、それをレストアして乗っています。クルマ好きな父の影響を私も相当に受けているはずです。実は、RX-7(FD3Sの5型)も所有していますし、根っからのロータリー好きですよ(笑)。既に他界した父は、生前、さまざまなクルマを乗り継いでいましたが、このコスモスポーツだけは決して手放すことはなかったですね」。

「普段、この個体を保管している場所は、床がコンクリートのため、地面からの湿気がすごいんです。湿気はタイヤをつたってロアアームにダメージを与えます。そこで大きなコルクボードを3枚ほど買ってきて床に敷き詰めています。コルクはやがて湿気を吸うので、梅雨明けした時期を見計らい、約1年に一度交換をします。さらに風通しを良くするため、長期間、乗らないようなときはクルマを少しだけジャッキアップするんです。また、タイヤはひび割れ対策のため、空気圧を高めにして、路面との接地面積を少なくするんです。こんな風に工夫はしていますが、足回りがもうかなり腐食してしまっていて…。本当は大規模なレストアがしたいのですが、純正色のラッカー塗料がもう手に入らないため、決心がつきません」。

涙ぐましいまでの工夫を凝らすことでコンディション維持がなされているオーナーの愛車だが、一体どんな出会いだったのだろうか。

「父がほぼ新車の状態で手に入れた個体です。私も、なかなか乗せてもらえない特別なクルマでした。私が小学2年の頃に登録抹消し、父の知人宅のガレージで長い眠りにつくことになってしまったので、当時の記憶はそれほどありません。その18年後、父の知人が引っ越すことになり、ガレージにあったクルマを再び引き取ることになりました。毛布でグルグル巻きにされて保管されている姿に驚きましたね。内装はカビがすごくてブレーキとクラッチも固着していましたが、燃料タンクだけは満タンになっていて、まったく錆びていませんでした。父は燃料タンクを満たすメンテナンスだけ、密かに続けていたのでしょう。だから私も長期間乗らないとき、満タンにするのを忘れないようにしています」。

18年ぶり、つまり2000年にオーナー宅へ帰ってきたコスモスポーツ。ここから2年をかけてのレストアが行われた。

「まずはカビ取りと脱臭をしました(笑)。駆動系はすべてオーバーホールです。なんとか動くようになりましたが、再びブレーキの固着やエンジントラブルが頻発し、結局コンディションが落ち着くまでに2年かかりました。部品はほぼストックで賄えましたが、ブレーキマスターだけ足りなくて購入しました。当時は4万5000円だったのに9万8000円に値上がりしていてびっくりしましたね。オーバーホールしたエンジンもなかなか圧縮比が上がらなくて、アペックスシールを金属製にしています」。

コンディションが落ち着き、ようやくドライブを楽しめるようになったと思った途端、今度は個体独特の“クセ”に戸惑うオーナー。まるでコスモスポーツに試されているかのような試練が訪れた。

「乗りかたをクルマに合わせるという経験は、このコスモスポーツが初めてでした。シートの重心位置は前オーナーである父のクセが残っていますし、クラッチのミートポイントも足を少し離すだけで動き出すほど奥にしてあるので、クラッチペダルを踏んだら踵を床につけて足首で戻す感じです。一度好みのミートポイントに調整したところ、乗るたびにクラッチのつながる位置が変わってしまう症状が起きて、とても苦労しました。ギアの入り方も独特なので、丁寧な操作は絶対条件です。こうして、クルマとシンクロしてきたと思えるまでに3〜4年はかかりましたね。ちなみに別のコスモオーナーがこのクルマを運転すると、結構乗りづらいと言われます」。

こうした苦労をともない、オリジナルのコンディションをここまで維持しているオーナーに愚問だと恐縮しつつも、モディファイされている部分を聞いてみた。

「実はこのアルミホイール、コスモスポーツのオーナーズクラブが1回限りで製作した特注品です。純正ホイールのデータ取りをしてもらい、さまざまなところに手を加えてあります。耐久性を持たせるために厚くなっていますが、目の錯覚を利用して薄く見えるようにも工夫がされていますよ。そしてこのフォグランプは、当時のモノらしいのですが、メーカーは不明です。『イッシン』と書いてありますが、日本製なのかどうかもわからないんです。詳しい情報をご存じのかたがいらっしゃれば、ぜひ教えていただきたいです。それと、サンバイザーに使われているビニール素材は、今も当時のまま、オリジナルです」。

アルミホイールを純正に近い構造で製作するなど、すべての絶版車オーナーにとっては夢のようなエピソードだ。

オーナーの話を聞きながら、コスモスポーツに限らず、絶版車全体において車体コンディションの維持は最も重要だと再確認した。さらに話は、部品確保やレストアの問題に及ぶ。

「最近はホンダ・NSXのリフレッシュプランや、マツダ・ロードスター(NA型)のレストアサービスが話題ですが、日本では、やっと始まったばかりですよね。ヨーロッパ…、特にフェラーリやランボルギーニは10年以上も前から大切に乗ってくれるオーナーのために、レストアサービスを実施しています。日本のメーカーは展示車両を直すだけではなく、年月の経ったクルマを生まれ変わらせ、なおかつ利益が出る部門を早急に作るべきじゃないかと思います。正直、パーツの再生産と共にレストアサービスの体制を確立して欲しいと思いますね。いちクルマ好きの願いとしては『直して使う』方向性に改善して欲しいのです。例えば、トヨタがパブリカのレストアに着手してくれれば、裾野はかなり広がると思います。エンジンはヨタハチ(トヨタS800)と共通ですから、波及効果が生まれることでしょう。日産もスカイライン(R32型)だけではなく、ハコスカ(スカイラインKPGC10型)をはじめとした他のスカイラインも対象にして欲しいです。そういうところから“とっつきやすさ”は生まれるのではないでしょうか」。

「現代は電化製品さえ直さずに捨ててしまいます。昔の取扱説明書には『分解の方法』が書いてあったくらいなのに。クルマも然りで、蓋を開けるにも蓋専用の工具が必要だし。安全性といった理由はあるにせよ『一度自分で分解したら保証対象外に』はおかしいですよね。自己責任で直せる人向けに、部品だけを提供するというサービスがあっても良いかな…とは思いますね」。

「大人の事情」は多々あると知ったうえで感じるのは、業界はもっと「直して使う」ことに注力しても良いということだった。今こそフォーカスすべきは「長く使い続けてくれる人が増えること」ではないだろうか。そんなクルマたちが1車種でも増えればという思い。今回、コスモスポーツとそのオーナーに出会い、強く感じたことだった。

(編集: vehiclenaviMAGAZINE編集部 / 撮影: 古宮こうき)