シニア・ソレイケ

昭和生まれ専科

絶対色感

2013-01-26 | 思いつくまま


水彩画を描くことから暫く遠ざかっているが、そのひとつの原因(逃げ口上の方が正しいかも)が色感の欠如だ。

世に絶対音感というのがあるとは良く聞くが、絶対色感というのはあるのだろうかと素朴な疑問が湧き、インターネットで調べたら、どうも絶対音感のように生まれついてのものではなく、修行経験で身についていくもののようだが、はっきりしない。

兎も角、絵を描くときに、見たままの色がでないというのは面白くない。例えば、木を描くとき、どうしても幹の部分は茶色を使ってしまう。 確かに杉など茶色をしている木も多いが、街路樹などは殆ど黒に近い灰色だ。また、水といえば水色を塗ってしまうが、実際はくすんだ緑色や天候や太陽の位置によって橙色や紫、灰色、無限の色を出す(とさ)。 ところが小さいときからの習慣で、水といったら水色、土といったら土色と決まっていて、その域から出ることができない。これでは写真のような写実性のある絵なんか描けっこない。

絵の本にはこういう景色や物はこう描けばよいと簡単に書いてあり、本当に写真みたいに生き生きと描かれ、「これは15分でスケッチしました」などとオソロシイことがかいてある。人間の簡単な所作のスケッチでも、一体を描くのに30分を費やしてもそれらしく見えない。一体どうしたらいいの?

小生の過去ログをお読みの方ならとうに感じておられるとおもうが、どうも絵にしろ、ゴルフにしろ、写真にしろ、楽器にしろ、道具を買って教則本を揃えると、それで達成感を感じてシマイそれでオシマイ。というか、少なくとも本に書いてあるプロ仕様のものを手に入れると、それだけで彼らと肩を並べたような安心感を覚えて、後は何時かこれを使って作品を作れば、オレも同じものができるという錯覚をしてしまう。つまり、文字通り「道具」と「目的」を履き違えているわけだ。

よく英語は意思伝達の道具であるというが、実際はその道具を使える奴が、例え中味がカラッポでも羨ましい。ロスのダウンタウンにたむろしている乞食に英語で話しかけられても劣等感を覚える。

そんな屈折した心理があって、今も「道具」の追及に血道を上げている。

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