先日、当社のエライさん、それに某女史と市内某すし屋で食事中に凄く懐かしいものを見た。
話は飛ぶが、諸兄は「万里昌代」という俳優をご記憶だろうか。長谷川一夫を少し痩せさせて女にしたようなきつい顔立ちだが、ボディは「生唾ゴックン」だった。ご参考までに写真を貼っておく。
大映の肉体派女優として当時の三原葉子、筑波久子などと美を競ったが、先日偶々You-tubeを見ていたら彼女がキャバレーの踊り子に扮して踊る場面が出ていた。何時の頃の映画が解説は出ていなかったが、その両脇の下には腋毛があった。前にも書いたと思うが、今から20年ほど前に初めてヨーロッパに旅行に行ったとき、イタリア辺りは腋毛を剃っていない若い子を数多く見かけたが、今は完全に見かけなくなったようだ。
それは兎も角、興味があるのでWikipediaで「腋毛」の項を引いてみたら次のとおり。
腋毛は陰毛と同じように第二次性徴期にホルモンの作用により思春期に発生する。男性の開始時期は陰毛の成長がTannerの分類で第4段階に達した頃から始まる。それから「腋毛の性質 (腋毛は陰毛と同様に一般に縮れ毛であり、腋窩部に発毛する。腋毛の濃さ、生える面積等は個人差が大きい)」「進化的意味 」「一般社会における腋毛」など 延々と語っているが、それはお暇なときに見ていただくとして、要は腋毛とシモの毛は同じ頃に、同じような手足の生え際(?)同じように生えるということだ。
ま、これらは経験的に分かりきったことだが、改めて腋毛が男性に与える精神的恵みを女性は何故止めてしまったのだろうかと思ってしまう。一時「黒木香」が腋毛で一世を風靡したが、後継者が居ないことは、職人の世界同様残念なことだ。先に書いたWikipediaによれば、1950年代のアメリカで、ノースリーブと安全カミソリの普及が剃り毛に拍車をかけたとか。
そこで冒頭に戻るが、その「凄く懐かしいもの」というのは、その店の年配のウエイトレスが、何かの折に「賛成」といって右手を挙げたとき、左手でワキの下を覆う仕草をしたことだ。小生これでも若年のみぎりは、横浜の清正公通り、親不孝通り、それに新橋のナントカいうキャバレーに足繁く通ったことがあるが、大体当時のキャバレーは薄暗かったり、ショータイムになると暗くなる。そのとき飲み物など注文をするときに女給(現在名;ホステス)はマッチを擦ってボーイを呼ぶが、このとき必ずマッチを持って高く掲げた反対の手でわきの下を隠すポーズをする。
今思えば、当時はオミズ系の女性でも、女のたしなみは毛を剃ることではなく、下にもちゃんと生えているという重要なサインを送るためにケを剃らないようにしていたという文字通りプロ精神に徹していたことだ…。と思う。
何れにしても、上の毛も下の毛も発生形態としては根は同じということだ。そうなると、魏の曹植の「豆を煮るにまめがらを焚く。豆は釜中(ふちゅう)にあって泣く、本これ同根より生ずるに、相煮ることはなはだ何ぞ急なる」と兄弟の争いを歌った「7歩の詩」があるが、マメは勿論女性の象徴。腋毛、陰毛はもともと同根と見ると、この歌ははなはだ春歌めいてくる。もしこの解釈が正しければセイキの大発見となる。
つまり兄の皇帝に脅されて作った歌は、兄弟の争いを指したものと歴史は教えるが、チッチッチッである。それまで優等生でやってきた曹植が死に臨んだやぶれかぶれで次のような意味で歌ったとは思えないか?
マメを熱くするにはマメと同じように毛の生えているものを使うに如かず。それなのに相手がオカマだったのでマメは熱くなれず泣く。同じ根から生えたものとはいえ、縮れ具合といい、これだけ相似るとははなはだもってすごい。
チョット無理があるかな
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