




“小森のおばちゃま”との出会い
高校時代に演劇に出会ったそうですね。
後藤邑子さん(以下、後藤) はじめは
同級生に連れられて演劇部に行きました。
先輩から「後藤ちゃんうまい」「おもしろい」
と褒められて、「もうちょっとやってみようかな」
と続けていくうちに、のめりこんでいました。
自分じゃない何者かになるという体験が、
すごく快感だったんです。
たぶん私は、文字通り「自分じゃない何か」
になりたかったんだと思います。
倦怠感は常にあって、生活の制限も多い、
そんな自分本体を好きじゃなかった。
そういう自分を全部忘れて別人になれる
時間が快感でした。演じたあとは誰よりも
バテてるんですけど(笑)。
そのころから役者の道を志していた
のでしょうか?
後藤 やりたい気持ちはありました。
でも体育の授業も見学しなきゃいけない
体で、プロの舞台をこなすのは現実的に
不可能だと思っていました。
治らない病気である以上、
これは仕方ないこと。
でもお芝居には絶対関わりたかった。
どんな形でもいいから関われる方法を
探していました。
そんなあるとき映画評論家の小森和子
さんが、近所の市民ホールに講演で
来ることがあって。
“小森のおばちゃま”ですね。
映画評論家としてだけでなく、
タレントとしても、全国的に有名
ですね。
後藤 私は映画が好きだったので、
「小森のおばちゃまが来るんだ!」と
喜んで講演会に行きました。
そこで、小森さんのお話に、すごく感銘
を受けたんです。
あの方はすごく破天荒というか、波瀾万丈
の人生だったんですよね。
それで、小森さんも「やりたいと思った
ことはすぐ手を着ける」とか「時間が
もったいない」ということをしきりに
おっしゃっていました。
あんなにおっとりした雰囲気で、かなり
高齢でもあったのに、話す内容はもの
すごく情熱的なんです。興奮しました。
自分と似ている、でも自分よりずっと
肝が座ってて、行動してる。私もそんな
風になりたかったと……。
講演が終わって、どうしても小森さんと
話がしてみたくなった私は、講演会終了後、
裏口に回ったんです。
出待ちしたんですか?
後藤 出待ち……いやぁ、うーん、もう
ちょっとタチが悪くてですね……。
警備員さんには「アポイント取ってあるん
ですけど」と嘘をついて、楽屋まで通して
もらいました。
通してもらってすぐ、小森さんには
「すみません、嘘つきました。少しでも
お話がしたくて」と白状しました。
そうしたら、すごく長い時間、いろいろな
お話をしてくれて……。
さらには「もし本当にお芝居に関わりたくて
東京に出てくるんなら、私のところを訪ねて
らっしゃい」と言ってくれて、麻布の住所を
書いて渡してくれたんです。
このメモはお守りがわりに今も大切に
持っています。
「役者が無理でも、声が独特だから、
声優って道もあるんじゃない?」
熱意が伝わったんでしょうね。
後藤 私は、本気でお芝居に関わる道を
探すことにしました。
それまでは現実的に、体を長持ちさせること
を考えて、「楽な部署の公務員になって、
週末に劇団に参加する」ことが最適解だ
と考えていました。
そのために地元の名門と言われる大学に
進みました。
その一方で、「そうしてるあいだに人生
終わったらどうする?」「どうせ終わるなら
全力でやりたいことやれば良かった、って
後悔しないか?」とも思っていて、日々、
揺れていました。
でもこの日、最適解じゃないほうに
決めたんです。
裏方ならいけそうだ、いつかは脚本家、
監督も視野に入れて……。そうやって、
本気でお芝居に関わる道に行こうと
決めたんです。
とはいえ、具体的な方法はわからなかった
ので、まずTV局にアルバイトで入りました。
そしたら、 そこで出会ったディレクターさんに
「役者が無理でも、声が独特だから声優って
道もあるんじゃない?」と言われたんです。
それまで声優というお仕事が頭になかった
ので、「その手があったか!」と。
青天の霹靂だったんですね。それまで、
声について何か言われたことがなかった
んですか?
後藤 教室でも部室でも「邑子が来るとすぐ
分かる」とは言われてましたが、「騒がしい
からかなぁ」くらいに思っていました。
演劇部ではずっと男役でしたし。自分の
声が女の子役に向いてるなんて思いも
しませんでした。
初めて「声優」という職業を意識したとき、
声優だったら動かなくていいし、身体的な
ハンデは少ない。
そこなら裏方として関わるんじゃなく、
お芝居そのものをできるんじゃないか、
と思いました。
私がお芝居をやるとしたら、そのフィールド
しかないんじゃないか、って。
声優になる方法を調べると、代々木アニメー
ション学院(以下、代アニ)のオープンキャン
パスがあるのを見つけました。
そこに参加したら、特待生にしてあげると
言われたんです。
「いましかない。これだったら私にもできる
かもしれないんだ」
特待生というのは?
後藤 授業料が免除されます。代アニには
寮もあるので、寮費さえ賄えればどうにか
なりそうだな、
そのときの貯金でギリギリいけそうだな、と。
そう思ったら、もう大学の退学届けを書いて
いました。
本当に行動が速いですね。でも、ご両親は
反対したのでは?
後藤 両親は絶対に反対すると思ったので、
親の署名は自分で書きました……(笑)。
……それ、上京する段階でバレますよね?
後藤 はい……。上京の直前に「お話が
あります。
今から東京の代々木にある学校に行きます。
で、大学はもう退学しました」と打ち明けたら、
両親は大泣きして反対し、M先生にまで
泣きついたんです。
でも、「いましかない。これだったら私にも
できるかもしれないんだ」と訴えたら、M先生は
納得してくれて、東京の大学病院で医師を
している知人に私を紹介してくれました。
さらに、おこづかいまで持たせてくれました。
両親は「話が違う」と(笑)。
結局、「最後まで反対したら邑子が家に
帰りにくくなる」と家族も折れました。
勢い、身ひとつで飛び出すように東京に
出てきたんです。 …
次回・突然の妹の死。そして…



小児科外来に通院する5歳男児。
仮死状態で生まれ、重度の知的障害、
肢体不自由がある。
自分で体を動かすことができず、
言葉や表情での意思表示も難しい。
食事は口からではなく、1歳の時に
造設した胃ろうから栄養剤を注入
していた。
10歳の姉、40代の両親との4人暮らし
で、訪問看護を利用しながら、母親が
主に世話をしている。
夜間や週末は、母親が休めるよう、
父親が積極的に手伝っていた。
もともと腸機能が弱かったところ、
腸 閉塞へいそく をおこして入院した。
主治医からは、「以前に受けたおなか
の手術が原因で腸管が癒着して狭く
なり、閉塞を起こした可能性がある。
絞扼こうやく 性イレウスという腸管の
血流障害を起こしかけている可能性も
否定できない。
直ちに手術することを勧めます」
との説明があった。
両親は、「これまでいろいろな治療を
してきた。すごく大変な目に遭ってきた。
こんなにがんばってきて、なお、ここで
手術もしなくてはならないのか……」と
話し始めた。
そして、「病気になってしまったのは
仕方がない。これ以上、大変なことを
背負わせることは、私たちにはできない。
手術はしない」と伝えた。
「手術しなければ数日で亡くなる
可能性もある」と主治医
主治医は、「手術をしない場合、
絞扼性イレウスを起こしていたら、
腸管が 壊死えし し、数日で亡く
なる可能性もある。
今の状況では、内科的治療では
一時的な症状緩和しかできず、
完全に治癒することはほぼない
と思う」と説明した。
それでも両親は「それも仕方がない」
と言う。
主治医も看護スタッフも、治すこと
が可能であるにもかかわらず、
「手術をしない」という両親の意向に
驚き、どうすべきか悩んだ。
男児は顔色が悪く、ぐったりとして
いたが、痛く苦しそうな表情では
なかった。
保存的治療として、チューブを入れて
腸管内を減圧する方法と点滴を行った。
看護の面では、腸につながったチューブ
から出る排液量の確認や点滴の管理
だけでなく、訴えが見えづらい男児の
体の変化を注意深く観察し、細かな
変化を見落とさないようにした。
両親は男児が生まれたときから、
大切に育てていた。
主治医は何度か「いつ急変しても
おかしくない」と話したが、両親の
意思は変わらなかったため、
「考えを尊重しよう」という思いに
なっていた。
このケースを話してくれたのは、男児
が生まれてからずっと小児病棟で
かかわってきた看護師でした。
すでに別の部署に異動になっていま
したが、小児病棟の主任看護師から
男児の状態と両親の考えを聞き、
いてもたってもいられず、毎日、仕事
が終わると病室を訪ねていました。
看護師は、病室で両親とあいさつを
すると、男児には「今日はどう?
昨日よりちょっと楽そうだね」
「今日はおなかのあたりがしんどいん
じゃない?」などと声を掛けました。
男児に会いたくて、通い続けたそうです。
両親とも、ひとしきり男児のことを話しました。
何かを提案するためではなく、両親から
流れ出る話を聞いていく。そんな気持ち
で訪問していたそうです。
「これ以上、踏み込むことは難しい」
とみんなが感じ 男児と両親にずっと
かかわってきた病棟のスタッフたち
全員が悩んでいました。
主治医は両親の意向を尊重しよう
としている。
両親の決断は揺るぎそうもない。
もう一度、考えるためのカンファレンス
を開こうとか、何かを提案しようとか、
そういった動きは起きませんでした。
「これ以上、踏み込むことが難しい
状況を、みんなが感じとっていた」と
看護師は語ります。
スタッフそれぞれが、男児にできる
ことを最大限行い、日々のケアを丁寧
にしていました。
通常、この看護師のように、当該病棟
以外のスタッフが勤務外にかかわるの
はあまりないことですし、
推奨もされません。
が、このケースでは、看護師が夕方、
病棟にやってくると、病棟のスタッフも
男児の状況を話したりしていたそうです。
看護師は「奇妙な連帯感、
チームワーク」と表現しました。
「私たちが決めたことって、
間違っていないですよね」
主治医は、1週間しないうちに
山がくると考えていた。
両親もスタッフも、手術をしなければ
急激に悪くなると予測していた。
しかし、男児は小康状態を保ち、
1週間がたった。
そんな中、訪問を続けていた看護師
に対し、両親がぽつりぽつりと心情を
話すようになった。
「やっぱりしんどいのかな」
「私たちが決めたことって、
間違っていないですよね」。
手術をしないと決めていても、気持ち
は少しずつ揺れ始めていると看護師
は感じた。
入院10日目、今まで何も気持ちを
表出していなかった男児が泣いた。
ポロポロと涙を流した。
男児の涙を見て、両親は、「やはり
手術したほうがよいのですね」と主治医
に話した。
今までの決定を変更し、腸閉塞の
手術をすることになった。
このケースを振り返り、看護師は、「手術した
ほうがよい、子どもを助けたいという思いは
ずっとあったが、誰もジャッジはしなかった。
親の意思について『それでよいのかな』と
思いながらも、自分たちができる最大の
ことをしようとしていた。
子どもの姿を見て、家族が決めたこと。
そんな親子の姿を、私たちはずっと見て
いた」と明かしました。
しかし、一方で、「男児が涙を流していな
かったら、どうなっていたか。たまたま
助かったけど、それでよかったのか……
と今も思い続けている」とも言います。
後日、主治医に、どう考えていたのか尋ね
たそうです。主治医は、「あの時に言っても
変わらなかったよ。もっと強く押していても、
両親が納得できなかったと思う」と言った
そうです。
その後、病状が小康状態となって、家族に
もう一度考える時間が与えられ、男児が
涙を流したために両親は考えを変えました。
もちろん、初めからそうなるとわかっていた
わけではありません。
命を救うには…ぎりぎりの判断
なぜ看護師は毎日、病室を訪問した
のか、その理由が知りたいと思いました。
看護師は、「今、行かねばならない」と
思ったそうです。
「普通はこういうことをしないし、自分が
病棟のスタッフだとしたら、そんな行動は
してほしくない。
自分でも理由はわからないが、行くべきだ
と思った」。まさに何かに突き動かされた
ようです。
このケースでの主治医やスタッフの対応に
ついて、ほかの子どもの場合でも同様に
行われたと思うかも聞いてみました。
それには即座に、「この親子だったから」
という答えが返ってきました。
この言葉を聞いて、両親が今まで大切
に男児を育ててきたことへの全面的な
信頼があったのだと感じました。
男児の命を救うことを考えると、本当に
ぎりぎりの判断だったと思います。
両親はそばで見守り、病棟スタッフは
男児を助けたいと思いながら丁寧な
ケアをし続け、別の部署に異動していた
看護師が突き動かされるように男児の
もとへ通った……。
男児の生命力がこのような結末を
導いたとも感じます。
「ジャッジをしない」ということの意味
医療者にとっては、命を救うことの価値が
何にもまさりますが、両親の「手術をしない」
という決断については、
「良いか悪いかというジャッジはしない」
という態度がありました。
いったんは手術をしないと決断した両親
には、筆舌に尽くしがたい思いがあった
ことでしょう。
「何か提案できないか」
「両親の気持ちを変えられないか」
と動きたくなりますが、看護師は
「流れ出る話を聞く」ことに専念
しました。
とても難しい実践ですが、このことが
両親の心に何らかの変化をもたらした
のだと思います。 …



