貧者の一灯 ブログ

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貧者の一灯・番外編

2022年10月25日 | 流れ雲のブログ










  










「安らかに」は幻想

世界で最も高齢化が進む日本で、
私たちは老いや死をどう受け止めていけば
よいのか。

識者の言葉から、やがて訪れる「多死社会」
への向き合い方を探る。

戦中、戦後を通して人と死を見つめてきた
作家、五木寛之さんに聞いた。

高齢化が騒がれているけれども、その後に、
650万人の団塊の世代が一斉にこの世
から退場していくわけです。

大量の要介護老人と、大量の死者が
周囲にあふれかえる時代がくる。

まさに未曽有の事態です。

これまでの歴史で経験したことがなく、
今はまだ解決法もノウハウもありませんから、
手探りでやっていくしかありません。

近代は、個人としての老いや死を問題
にしてきましたが、

これからは社会全体でどう受け止めて
いくかが課題になります。

政治や経済の問題だけでなく、宗教の
ような、集団的思想がクローズアップ
されるんだろうと思います。

老いや死に対して、安らかな、落ち着いた
境地があるというふうに想像するのは幻想
でしょう。

年老いるというのは、そんなにきれいな
ものじゃありません。

身体が次第に崩壊していく中、
肩身を狭くして生きていくことなの
ですから。

昔は高齢者が少なかったから大事に
されたが、若者より高齢者の方が多く
なれば、そうはいかなくなる。

年を取ってから負う障害については、
「転ぶ」ことが大きな問題になります。

日本転倒予防学会に寄せられた川柳に、
「つまづいて身より心が傷ついて」と
いうのがありました。

骨折するかどうかよりも先に、「どうして
こんなところでつまずくんだろう」と
心が傷つくんですね。

死が突然訪れてくれば簡単ですが、
多くの場合、自分が崩れゆく過程を
体験しないといけない。

昔は宗教があり、あの世の極楽と地獄
という観念がリアルにありました。しかし
今は、死ねば宇宙のごみになる感覚
でしょう。

その中で、自らの人間的、肉体的な崩壊
に日々直面していかなきゃいけない。

介護を受ける人たちも、ある種の失意
というか、痛みを感じているんだろうと
思います。

だから、認知症は、天の恵みなのかも
しれないという医師もいます。

僕は敗戦を 平壌ピョンヤン で迎え、
その後何年かの引き揚げ体験のなかで、
大量の死に直面しました。

両親や家族も割合早くに亡くし、
死を日常的なものとして受け止めて
きました。

僕自身の体が不自由になって、
意思の疎通も難しくなってきたときには、
食べなきゃいいだろうという感覚があります。

水もあまり取らないようにして、自ら枯れて
いけばいいじゃないかと。緩慢な退場
というか、そういうのができればいいな
と思います。

多くの人が、家族との絆も薄れる中で、
自らの老いや死と向き合わねばならない
時代です。

子や孫に囲まれて、息をひきとるような
ことは、もうあり得ないと思ったほうが
よいのではないか。

最期は、一人でこの世を去る覚悟を
持たないといけない時代でしょう。

僕は、老いさらばえていく姿を、
むしろ家族に見られたくない。
単独死、孤独死が、悲惨だとは
思いませんね。…


推計160万人超…2030年 年間死者数


日本では戦後、寿命が延び、高齢化が
急速に進んだ。

現在、平均寿命は男性80歳、女性87歳。
人口に占める65歳以上の割合(高齢化率)
は26.7%  (2015年)、世界で最も高い。  

高齢者が増えた後には、「多死社会」
がやってくる。

1年間に亡くなる人の数は、1970~80年代
は70万人台だったが、15年には130万人
になった。

人口が多い団塊の世代(1947~49年生まれ)
が全員80歳以上になる30年には、160万人
を超える見通しだ。  

QOD=Quality of Death(Dying)
 「死の質」の意味。

author:五木寛之












この物語は、 醜い顔をしているため、
「泥かぶら(泥まみれの大根)」と あだ名
をつけられた子どものお話でございます。


昔、ある村に顔の醜い少女がいました。
孤児で、家もなく、森の落葉の中にもぐり、
橋の下で寝る。

色は真黒、髪はボウボウ。着物はボロボロ、
身体は泥だらけ。 少女は、その醜さゆえに、
「泥かぶら」(泥まみれの大根)と呼ばれて
いました。

子どもからは石を投げられ、唾を吐きかけられ、
泥かぶらの心はますます荒み、その顔は
ますます醜くなっていくばかりです。

「あたしはこれからどうしたらいいの…」

夕日を見ながら、悲しくなり考え込むのです。


ある日のことです。泥かぶらがいつものよう
に荒れ狂い、 「美しくなりたい!」 と叫んで
いるところへ旅の老法師が通りかかりました。

「これこれ、そんなにきれいになりたいと
泣くのなら、その方法を教えてしんぜよう。」

「3つある。
まず1つは、自分の醜さを恥じないこと。
2つ目は、いつもにっこりと笑っていなさい。
3つ目は、人の身になって思うことじゃ」

泥かぶらは、激しく心を動かされます。
それらは、今までの自分とまったく正反対の
生き方だったからです。

「この3つを守れば村一番の美人になれる」

法師の言葉を信じた泥かぶらは、その通り
の生き方をしはじめます。

しかし、急に態度の変わった泥かぶら見て、
村人は不審に思うばかりか、嘲笑し、中傷
するのです。

毎日毎日来る日も来る日も 少女の努力
は続きました。

ある日のこと 思いもよらぬ事件がおこり、
少女は濡れ衣を着せられることに・・・。

事の発端は、村一番の美人で一番お金持ち
の庄屋の子、こずえでした。

彼女が「助けて」と叫んで、泥かぶらのところに
走って来たのです。

こずえは、日頃から泥かぶらを嫌っていじめて
いた者の一人です。 何かわけがあるに違い
ありません。

果たして、こずえの後ろから、父親の庄屋が
鞭を持ってやって来ました。

庄屋は、命よりも大切にしていた茶器を
割られたことで、怒り心頭に達していました。

「泥かぶらが、割ったんだ」 父親の怒りを
逃れるために、こずえは、日頃から評判の
悪い泥かぶらに罪を着せていたのです。

怒り狂ったような庄屋は、娘の言うことを
信じて疑いません。

泥かぶらを見つけると、容赦なく鞭で打って、
折檻をし始めました。 泥かぶらは、すべて
を悟り、黙ってその鞭を受けました。

「人の身になって思うこと」という法師の
あの言葉を思い出し、「助けて」と頼んだ
こずえの願いを聞き入れたのです。

何度も何度も鞭で叩かれ、ひどい言葉を
浴びせられながらも、泥かぶらはこずえを
助けるために、最後まで耐え忍びました。

耐え抜いた少女は、 今度こそ綺麗になって
いるはずと、川面に顔をうつします。
しかし・・・ 少しも綺麗になってはいません
でした。

「もうやめよう。お坊様がおっしゃった3つの
言葉、あんなことで私は良くなるとは思えない」
泥かぶらが全身ボロボロになって、また丘の
上の夕陽を見ながら泣いていた時でした。

後ろからそっとやってきた人がいます。
こずえでした。

「助けてくれてありがとう。本当に悪い事
をした。これは私の宝物だから、あんたに、
もらってほしい」 そして、自分が一番大事に
していた櫛(くし)を差し出したのです。

この時、泥かぶらは自分が報いられたこと
を知りました。 生まれて初めての経験に、
泥かぶらは声をふるわせながら、こずえに
言います。

「その櫛はいらないから、その心だけで
いいから……どうかこれからあたしと、
仲良くして……」

こずえは泣きながらうなずきました。

そして、泥かぶらの頭の泥を払い、櫛で
髪の毛をすいてあげてかたわらの花を挿して
あげるのでした。

それからです。泥かぶらの人生が好転
していったのは……。

村人たちの泥かぶらへの評判がどんどん
良くなっていきます。

そうなればなおさら、泥かぶらはお坊さん
の3つの言葉をさらに実践していきます。

薬草を求める貧しい農夫のために、
猿でなければ登れないという険しい山道を
登り、 薬草をとって駆け下りてきたのでした。

そして少女は想像もしない、 農夫の言葉に
驚きます。 ありがとうよ! ありがとうよ! …

美しくなることより、 働くことに喜びを見つけた
少女は叫びます。 泥かぶらは泥かぶら、
どんなにしたって泥かぶら 逆立ちしたって
泥かぶら …、

子供が泣いていたら慰めてやったり、
子守りをしてやったり、人の嫌がることでも
ニコニコしながら次から次にしていきます。

すると、心も穏やかになっていき、あれほど
醜かった表情が消えてなくなっていきました。

村人のために労をいとわずに働く泥かぶらは、
次第に、村人にとってかけがえのない存在に
なっていったのです。

ところが、そんなある日、村に恐ろしい
「人買い」がやってきました。

人買いは借金のかたに、一人の娘を連れて
いこうとします。 泥かぶらと同じ年の親しい
娘です。

「いやだ、いやだ」と泣き叫ぶ娘の姿を見て
いた泥かぶらは、人買いの前に出て、自分を
身代わりにしてくれと頼みます。

こうして、売られていく泥かぶらと人買いとの都へ
の旅がはじまります。

おそろしい人買との旅の間も 愉快で軽やかに
歩き、毎日笑い転げていました。

みなし子の少女は問いかけます。
「おとっつぁんっておじさんみたいなんだね?」
次郎兵衛も悪い気持ちではありませんでした。

そんな時でも泥かぶらは、法師の3つの言葉
を忘れませんでした。

・自分を恥じない。
・どんな時にもにっこり笑う。
・常に相手の身になって考える。

ですから、旅の途中、毎日毎日、何を見ても
素晴らしい、何を食べても美味しいと喜びます。
どんな人に会っても、その人を楽しませよう
とします。

「売られて行くというのに、おまえはどうして
そんなに明るくしていられるのだ」

不思議がる人買いに、泥かぶらは、自分の
心にある美しく、楽しい思い出だけを心から
楽しそうに話して聞かせるのでした。

そんな泥かぶらの姿に人買いは、激しく心を
揺さぶれます。

親に捨てられ、家もない娘が不幸でなかった
はずはない。

それなのに、誰に対しても恨みごとを言わず、
むしろ村人たちに感謝さえしている。

そして、この自分に対しても、楽しい話ばかり
して喜ばせようとしてくれている。

それに引きかえ、それに引きかえ……、
ああ、自分のこれまでの生き様はなん
だったのか……。

月の美しい夜でした。 人買いは、泥かぶらに
置き手紙を残してそっと姿を消します。

手紙にはこんな言葉が書かれていました。

「私はなんとひどい仕事をしていたのだろう。
お前のおかげで、私の体の中にあった仏の
心が目覚めた。

ありがとう。仏のように美しい子よ」

泥かぶらはそのときはじめて、法師が
自分に示してくれた、教えの意味を悟り、
涙するのです。

泥かぶらのような人は、私たちのまわりにも
います。

自分にコンプレックスをもっている。
皆になかなか受けれてもらえない。
悲しさや悔しさに負けそうになる。

もしかしたら、それは自分自身かもしれません。
けれども、私たちも泥かぶらのように自分を
変えていくことで、自分の運命、人生を変える
ことはできるのです。

author:眞山美保作・演劇「泥かぶら」