2006年のアニメ『涼宮ハルヒの憂鬱』は、
エンディングテーマ「ハレ晴レユカイ」が
オリコンチャートの上位を席巻するなど、
まさに社会旋風を巻き起こすほどの
大ヒットになった。
朝比奈みくる役の後藤邑子さんも
その一人だった。
アニメが5本、ラジオが6本、ゲームも録り
ながら、週末はイベント。合間にレコーディング、
撮影…
当時の『涼宮ハルヒの憂鬱』界隈の盛り
上がり方はすごかったですね。
「あ、売れてるんだ」と実感したことは
ありましたか?
後藤 武道館にポップアップ(舞台の下から
飛び上がる)で登場してましたからね(笑)。
夢にも思わなかった景色です。
なぜ自分がここにいるのか分からないまま、
ただすごく楽しかったです。
これほどのタレント活動は、事務所としても
前例のないことだったので「イベントが
すごく多い!
マネージャーは誰が行けます?」と
バタついていました。
『涼宮ハルヒの憂鬱』という作品は、
スタッフと声優がお互いに意見交換を
できるような、とても距離の近い現場でした。
あるとき、収録現場で、共演者の小野
大輔くんが「最後のダンス、ちょっと覚え
たんだよ」と言って、番組のエンドロールで
キャラクターたちが踊るダンスを真似
したんです。
それを見た制作陣が「これ……イケるん
じゃね?」という雰囲気になって……。
私としては、小野くんに「なんてことしや
がる……!」と内心思いましたけど(笑)。
でも、結果的に、番組エンディング曲
「ハレ晴レユカイ」は音楽チャートの上位
に入り、私たちは武道館やアリーナのような、
大きなコンサート会場のステージにも
どんどん上がるようになっていったんです。
そこから一気に「売れっ子」になるわけ
です、
いちばん忙しいときはどういった
スケジュールでした?
後藤 それまで、アニメとゲームとラジオの
収録でスケジュールはわりといっぱい
いっぱいだったんですが、そこに、
イベントとレコーディングと撮影が入る
ようになりました。
アニメの収録は、どれくらい時間がかかる
ものでしょうか? 後
藤 半日ですね。だいたい5時間キープ
されます。
アニメ5本とラジオ6本をレギュラー収録して、
ゲーム複数本を並行して収録して、
週末はイベントに出演して、空いている
曜日にレコーディングして、 隙間時間
に撮影して……。
毎日、朝から夜までずっと何かの仕事
をしていました。文字通り、朝から夜まで。
でも私は「嬉しい」の一心でした。
気持ちに引っ張られて、体も動い
ちゃうんです。
病院から遠のいていく足…
「寝転がると溺れているように息苦しくて、
座った状態じゃないと眠れない」
相当多忙だったと思いますが、
体の調子はどうでしたか?
後藤 長年かけて、確実に悪くなって
いきました。
でも、自分を指名してくれた作品なら、
忙しくても全部受けたかった。
事務所にお願いしてスケジュールの
どこかにねじこんでもらっていました。
自分で自分を追い詰めていったん
ですよね。
定期検査でも、いろいろな数値が
悪化していたのはわかっていたし、
薬も増え続けました。
「もしかしたら他の病気もあるかもしれ
ないので」と、しきりに精密検査を勧め
られましたが、受けませんでした。
それはどうしてですか?
後藤 絶対に悪い検査結果が出ると
思ったからです。
「まずい病気が見つかったら仕事を
辞めなきゃいけなくなるかもしれない」
と思ったら、見ないふりをしたかったん
です。
そのうち、病院にも行かなくなりました。
その時点でも、まだ持病は事務所に
隠していた?
後藤 隠していました。「やりたいことが
取りあげられちゃう」と思ったら、言い出せ
ませんでした。
新人時代は400ccのバイクで事務所に
通っていたくらいですから、周囲からは
むしろ健康的なイメージを持たれていた
と思います。
でも、次第に足がむくんで靴が履け
なくなってサンダルで仕事したり、
関節の痛みが激しくなって自力で階段
の上り下りができずマネージャーに
肩を貸してもらったり……。
あと、 帯状疱疹が悪化して、着られない
衣装も増えました。そんな状態が続けば、
事務所側も怪しみますよね。
そのうちに寝転がると溺れているように
息苦しくて、座った状態じゃないと眠れ
なくなりました。
ついに業を煮やしたマネージャーたち
が3人がかりで説得に来ました。
「一回検査を受けましょう」
「仕事は続けられますから」
「明日家まで迎えに行くので、
そのまま病院に運びますね」と。
自分で行くと言ったんですけど、
それは信用されなかったですね(笑)。
「何時頃に帰れますか?」
「帰れないと思いますよ」
このときに全身性エリテマトーデスが
判明したんですね。
後藤 病院に行くなり、点滴やら何やら
体中に管が繋がれました。
諸々の検査結果を待つあいだ、看護師
さんに「明日、朝から仕事なんですけど、
何時頃に帰れますか?」と聞いたら、
苦笑いされて「帰れないと思いますよ」と。
中学3年生の時に、病室から出られない
と言われたときの記憶が蘇りました。
検査で、肺に水が溜まっていることと、
心臓が傷ついて漏れ出た心嚢液が
臓器を圧迫していることが分かりました。
結局、そのまま緊急入院。
すべての仕事を降板することになりました。
長期入院になりましたね。 …
大阪にある淨信寺(じょうしんじ)というお寺の
副住職、西端春枝(にしばた・はるえ)さんの話
西端さんは大正11年生まれだ。
「にもかかわらず美しく、頭脳明晰で、しかも
明るく楽しいお人柄」と松岡さんは言う。
確かにインターネットで検索したら20歳は
若く見える女性だった。
西端さんが商業界の最前線から退いて
早40年になる。後に全国展開をする総合
スーパー㈱ニチイの創業者・西端行雄氏
と結婚したのは1946年、終戦の翌年だ。
以来、二人は戦後の高度成長と共に
商人道を歩んできた。
㈱ニチイの前身は、大阪の天神橋筋に
出店した、わずか一坪半の衣料品店
「ハトヤ」だった。戦前、小学校の教員だった
夫は商売が下手で、悪戦苦闘の日々だった。
ある日の夕方、店先に思いもしない人が
立っていた。春枝さんの実家のお母さん
だった。
突然の来訪に春枝さんは戸惑った。
なにせ「店を出した」なんて言ってなかった
からだ。さらにお母さんは、二人が一番
恐れていたことを口にした。
「今晩泊めてもらうわ」
社会全体がまだまだ貧しい時代だった
とはいえ、二人の生活は困窮を極めていた。
親にだけは見られたくないし、見せたく
ない生活だった。
日が暮れた頃、お母さんが言った。
「春枝、ところでお便所はどこ?」
二人の家には水道も便所もなかった。
いつも近くの天満駅の便所を借りていた。
もう開き直るしかなかった。
春枝さんはあっけらかんと、
「お便所ないねん」と言い、
咄嗟に近くにあったバケツを差し出し、
「これでしてちょうだい」と言った。
一瞬たじろいだ表情をしたものの、
さすが明治の女である。
お母さんは「こりゃおもしろいね」と言って、
音を立てて用を足した。
翌朝、お母さんは突然「用事があるので
帰る」と言って、朝ご飯も食べずに
若い二人の小さな居住地を後にした。
二人は慌てて靴を履き、天満駅まで
送った。
当時の天満駅のホームは長い階段を
上っていったところにあった。
階段の下で「それじゃ、無理せんと、
西端さんも気をつけて…」
「お母さんも気をつけて…」、ありふれた
別れの言葉を交わした。
階段を上っていくお母さんの後ろ姿を
見送っていた夫が、呻(うめ)くような声で
言った。
「春枝、ようく母さんの背中を見ておくんだ。
今母さんは滝のような涙を流しているに
違いない」と。
お母さんは頬を伝わって流れる涙を、
二人に気づかれないように、手でぬぐう
ことなく階段を上っていた。
だから一度も振り返らなかった。
その背中がすべてを物語っていた。
春枝さんは思った。「あの母の後ろ姿
をバネにしよう」
誰にでも「あの日」があると思う。
「あの日」があったから今の自分がある、
と言えるような、
忘れてはいけない「あの日」が。
それは、思い出すだけで心のバネになる
「あの日」だったり、感謝で心がいっぱいに
なる「あの日」だったり。
そんな「あの日」があるはずだ。
「おかん」というロックバンドの『人として』
という楽曲は、今の幸せに繋がった
「あの日」のことを歌っている。
…あの日あのとき、奇跡とも言える瞬間が
無ければ笑い合うこと無かったよ…
あの日生まれなかったら
あの街に住んでなかったら
あの電車に乗ってなかったら
あの日が休みじゃなかったら
あの会社じゃなかったら
あの学校に行ってなかったら
あの日晴れてなかったら
……あの時別れてなかったら
あのとき、『好き』と言ってなかったら
痛み喜び感じずに僕はあなたを
知らないままだった
悔しいこと、つらいこと、悲しいことも、
いつかそれは「あの日」になる。
「あの日」をどう捉えて、どう生かすかは、
すべて自分で決めることだ。…
author:松岡浩著『一隅を照らす』