貧者の一灯 ブログ

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貧者の一灯・歴史への訪問

2022年10月14日 | 貧者の一灯













   









むかしむかし、玄象(げんしょう)という名前
のついた、すばらしいびわがありました。

このびわは宮中(きゅうちゅう)の宝物として
代々の天皇に伝えられた物で、たくさんの
宝物の中でも特別に大事にされてきたのです。

ところがある日の事、この大切なびわが
なくなってしまいました。みんなで探しましたが、
どうしても見つかりません。

「だれが盗んだのだろう?」

「いいや。あれほど厳重(げんじゅう)に
しまってあったものを、盗む事は出来ぬぞ」

「しかし、げんにないではないか。きっと
だれかが盗んで、隠し持っているに違いない」

「いやいや、あのような名器を簡単に
隠せるものではない。ちょっとでも音が
出れば、すぐにわかってしまうのだから」

みんなは色々とうわさをし、なくなった事を
知った天皇も、「このようなとうとい宝物を
自分の代になくしてしまうとは、まことに
申し訳ないことだ」と、大変なげかれました。

ちょうどそのころ、源博雅(みなもとのひろまさ)
というびわの名人がいました。

博雅は若い頃に京都の東にあるおうさか山に
三年もの間通って、宮中一と言われるほどに
びわを練習した人です。

ですからこの名器がなくなったと聞いて、
だれよりも深く悲しんでいました。

ある夜の事、宮中に泊まる番にあたって
いた博雅(ひろまさ)が清涼殿(せいりょうでん)
に座っていると、どこからともなくびわの音が
聞こえてきました。

「おや?」博雅は、じっと耳をすませました。

「あっ。あれは玄象だ! あのすばらしい
音色は、玄象にちがいない!」

博雅は召使いの少年を連れて、外に
飛び出しました。

「うむ、南の方から聞こえてくる」音を頼りに
歩いていくうちに朱雀門(すざくもん)まで
来ましたが、音はまだ南の方から聞こえて
くるのです。

博雅は音色にひかれるように、朱雀門を
外に出ました。そして京都のまん中を南北に
通っている朱雀大路(すざくおおじ)を、南へ
南へと進んでいきました。

気がつくと博雅は、羅生門(らしょうもん)の
前にたっていました。

「ここだったのか」

びわの音は、この二階から聞こえて
くるのです。

博雅はもう一度、びわの音に耳を
すませました。

(たしかに、玄象の音色だ。しかしこれは・・・)
玄象にちがいないのですが、どこか変です。

(人間に、これほどの音色が出せるだろうか?
 ・・・そうだ、鬼だ。鬼がひいているのだ)

博雅は、とっさにそう考えました。

なぜなら羅生門の二階には鬼が住んでいると、
言い伝えられているからです。

そのとき、びわの音がぴたりととまりました。
博雅はおどろいて、二階の方を見ました。
するとまた、びわの音が流れてきました。

博雅は勇気をふるって、声をかけました。
「そこでびわをひいているのは、どなた
ですか? 

玄象がなくなったので、天皇さまは
お探しになっておられます。

今夜わたしが清涼殿(せいりょうでん)に
おりましたところ、南の方で玄象の音が
しました。それで、ここまで探しにきたのです」

博雅が呼びかけると再びびわの音はとまり、
そして二階の方からカタコトと音がしました。

博雅が見上げると、何か天井から
下ろされてくる物があります。

(なんだろう?)博雅が見ていると、それは
つなにつるされたびわではありませんか。

「あ、玄象だ」

博雅はふるえる手で玄象を取ると、
羅生門から走り去りました。

そして宮中に帰った博雅は、さっそく
天皇に玄象を差し出しました。

天皇はとても喜んで、博雅からその時の
様子を詳しく聞きました。

「なるほど、羅生門にあったというのか。
それでは、見つからぬはずだ。

羅生門なら、盗んだのは鬼であろう。

あれほど厳重にしまっている名器が、
人間に盗めるはずが無いから」

玄象はそれからも宮中の宝物として、
大切につたえられたということです。

さて、この玄象にまつわる不思議な話は、
他にもあります。

いつの頃か、宮中で火事がありました。

みんなはついうっかりして、玄象を持ち
出すのを忘れました。

みんなは焼けてしまったかと心配して
いましたが、なんと玄象は一人で庭に
出てきて、火事から逃れたそうです。…












「皆さん、今日は故人からの最後にして
最大のメッセージがあります。

それは『みんな死ぬぞ。
だから心して生きよ』です」

葬儀に出席する時は確かにこのことを
感じなければならないと思います。

お釈迦さまは「四馬の譬喩」という譬え
を説かれています。

第一の馬は、御者のふりあげた鞭の
影だけを見て走り出す馬で、駿馬です。

第二は鞭が毛の先にふれて、
走り出す馬です。

第三は肉に鞭を感じてから
走り出す馬です。

第四は骨に達してからようやく
走り出す馬です。

お釈迦さまはいったい何を話そうと
されているのでしょう。

こういうことです。

遠い村や町の人が亡くなったと
聞いて、我が事と受けとめ、心して
生きようとする人が第一の馬に
たとえられる人です。

自分の村や町での訃報を聞いて、
”うかうかしておれんぞ”と立ちあがる
人が第二の馬にたとえられる人です。

自分の親兄弟などにお迎えが来て、
遅ればせながら気づく人が第三の
馬にたとえられる人です。

最後は自分自身のお迎えが近く
なってようやく気づく人、これが
第四の馬にたとえられる人です。

人は皆、いや生きとし生けるものは
皆例外なく死にます。

老若を問わず、予告なし、
待ったなしに死は訪れます。

しっかりと第一の馬にたとえられる
人のように生きなければいけません。 …