貧者の一灯 ブログ

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貧者の一灯・THEライフ

2022年10月20日 | 流れ雲のブログ










  







専業主婦の会田紗香(さやか仮名・43歳)。
彼女は、約半年前から、7歳年上の会社
経営者と不倫関係にある。






一見30代半ばかと見まがうが、実は43歳。
目や口元が三浦理恵子に似ていて、
間違いなく美人の部類に入るルックスだ。

子供は大学生の息子が1人いるとこっそり
教えてくれた。  

今の不倫相手は妻子がいるため、W不倫
ということになる。

「意外に思われるかもしれませんが、
夫との関係は良好なんです。

固い友情で結ばれてる感じですね。でも、
男女関係はとっくの昔に終わってるんです。

旦那はもう、男じゃない」  

紗香は、時折、視線を下に漂わせながらも、
はっきりとした口調で語り出した。

結婚した時より緊張する不倫相手との逢瀬  

紗香が現在の不倫相手と出会ったのは、
地元の石川県金沢市にある喫茶店だった。

そこにパート勤めしていた紗香は、特に
常連に人気の店員だった。その常連の
1人が会社経営者の吉田健介(仮名・50歳)
だった。

健介は、児玉清似のダンディな落ち着いた
中年男性。高校時代は野球部に所属しており、
筋肉質で胸板があるのが魅力だった。

「喫茶店で働いていた時、ずっと健介さん
のことをいいなーとは思ってたけど、まさか
こんな関係に発展すると全然思わなかった
んです」  

夫が急な転勤で東京に引っ越すことになり、
1年ほど勤めていた喫茶店を辞めることに
なった紗香は、残念がってくれる健介に、
趣味のドライフラワー用の名刺をさりげなく
手渡した。

長年お世話になった常連さんへの社交辞令。
そのつもりだった。  

健介は数日後、その名刺のメールアドレスに、
食事の誘いのメールを送ってきた。

二人は、紗香の夫の転勤前に何度か
地元で食事をしたが、その時は、もちろん
肉体関係はなかった。  

しかし、東京に転勤後、健介は、紗香に
アプローチをかけ始めた。

「たまたま健介さんから、“東京に出張で
行くから会いませんか”というメールが
来たんです。

それで会うことになった。私は、愛想のいい
人間なんで、“ぜひまたお会いしましょう”って、
言っちゃったんですね。

そしたら、“その日はずっと二人で一緒に
過ごしませんか?”と返ってきたんです。

それって……、セックスも含むってこと? 
と思って、とにかくびっくりしました。  

だけど、私も彼のことが好きだったし、
さすがに覚悟を決めましたね。

そっか、私、今日、セックスもありで男の人
と会うんだって思ったら、めちゃくちゃ
恥ずかしくなった。

でも決まったら、準備しなくちゃ…となって、
ネットで『お泊りデート』と検索していて、
替えのストッキングとか準備し始めましたね
(笑)」  

その日、紗香は、夫には友達の家に
泊まりに行くので帰らないと告げた。

時折、ドライフラワー仲間の友人宅に
泊まりに行くことがあった紗香に、夫は
特段、不審感を抱くということもなかった。

紗香は、夕飯と翌朝の食事の支度をして、
これから起こることに一人心を躍らせながら
自宅を出た。  

健介が紗香を呼び出したのは、帝国ホテル
のフロントだった。

荷物を置きに部屋に行くと、そこは
広々としたジュニアスイートで、大きな
ダブルベッドが2つ並んでいた。

「ぶっちゃけ、お金がかかっていたと
思います。彼が私を誘った責任を果たし
たいというのを感じましたね。

私は彼に会いに行くのに、すごく勇気が
いったわけです。その大きなジャンプに
対して、クッションを敷いてくれた感じで、
正直うれしかった」  

しかし健介は、部屋に入ってもいきなり
紗香の身体を求めるようなことはしなかった。

半年が経った今も、その態度は変わらない。
むしろ、健介には性欲に走ることは恥だと
思っている節があるという。

紗香が誘わない限り、セックスの誘いにも
乗ってこないのだ。そのガツガツしない、
ダンディな態度に紗香はますます惹かれ
ていった。

紗香といると落ち着く、

健介は、そう言って、紗香を喜ばせた。
ずっと昔に味わったことのあるこの感情、

それは、まるで甘酸っぱい思春期のカップル
の心境だと紗香は思った。  

二人は、夜景を楽しみながら、ルーム
サービスを取り、部屋でいつまでも語り合った。  

夜も更け、お互いシャワーを浴びた後、
健介はおもろむにベッドに横になった。  

すると、いつの間にか、聞こえる寝息…。

「パッと目をつぶっていたら、もう向こうが
寝ていたんです。不覚にも、寝てしまった
という感じ。

私から寄っていくのも嫌だったから、そのまま
にしていました。だから、1つのベッドで、
離れて寝ていたんです。

朝方、ふいに目が覚めるんですよ。

私はもちろん、ほとんどまともに寝れて
いません(笑)。それはムラムラして……
というわけじゃなく、横に好きな人がいて、
すごくうれしいなという感じで。

でも、もっと健介さんとくっつきたいと思った」
肉欲だけの関係だったら、深みにハマらなく
て済むのに  

朝日がカーテンの隙間から差し、健介が
目を覚ましたことが分かると、紗香は意を
決してベッドの上で少しずつ身体を回転
させて、健介に近づいていった。  

すると、そこから自然な流れで健介は、
紗香にキスした。舌が入ってきて、絡み合う。

紗香は、何十年ぶりのキスの味にときめいた。
旦那はキスが嫌いで、まったくしてくれなかった。
本当は、紗香はとろけるようなキスが大好きだった。

それで好きな人がキスしてくれたと思うと、
うれしくて、めちゃくちゃ長い時間キスしましたね。

健介さんも、そんな私の様子を感じ取って、
それに応じてくれた。  

あと、“スタイルいいね”と身体もほめてくれた。
そこからは、普通のセックスでした。

私は彼をぎゅっと抱き締めてるだけ。私は
それで十分満足で、胸がいっぱいでした。  

体位は正常位だけだったんですが、本当に
それが自然な流れで、だから逆にうれしかった。

“奥さんとできないようなプレイを、外で楽しん
でやれ!”という感じじゃなくて良かったと
思ったんです。

でも、その半面、心が動くのが少し怖くも
ありました。肉欲だけの関係だったら、深み
にハマらなくて済むから」  

一つになっている最中も、健介は、紗香が
大好きなキスを欠かさなかった。それがうれしくて、
紗香は、もっと健介を求めた。

ああ、これが幸せ、今、この瞬間に、嘘はない。  

チェックアウトした後、新幹線で帰る健介を
駅まで見送った。

紗香は家に帰ると、緊張が解けたのか、
夕ご飯の支度をすると、そのまま寝てしまった。  

それは、とても心地の良い疲れだったからで、
何年かぶりに深い眠りに就くことができたのだった。  

紗香はなぜ健介とのW不倫にハマって
しまったのか。そこに求める救いとは。












昭和五十年頃、鎌倉の荒れた中学校へ
赴任した時のことです。

皆からゴムまりをひどくぶつけられるなど
のいじめに遭い、しゅんとしている一年生
の子がいました。

私は生徒指導担当として「先生が付いてる
から頑張りなさい」と励ましてきましたが、
三年生になるとあまり姿を見掛けなくなりました。

進路相談の行われた十二月、彼の母親が
私の元へ来てこう言いました。

「うちの子は休みが多く、点数が悪いから
どこの高校も受けられないと担任に
言われました」

その子はとても育ちのいい子だったのですが、
ある日級友からお菓子を万引きしてこいと
命じられました。

学校へ行くとまた何を言いつけられるか
分からないから、次第に足が遠のいて
しまったというのです。

自責の念を覚えた私は、ある私立高校まで
行って事情を話した上、「受験までに必要な
勉強の基礎を、全部私が責任を持って
教えておきますから、受験させていただけ
ませんか」とお願いし、以来二人三脚で
猛勉強の日々が始まりました。

周囲に気づかれないよう暗くなった夜七時頃
に彼の家へ出掛け、英国数の基礎から
みっちり三時間教えては十時半の最終バス
で駅へと向かう。

電車を降りるとタクシーは一時間待ちの
行列です。

仕方なく夜道を四十五分かけて歩き、
十二時過ぎに帰宅する日々が続きました。

あんまりくたびれるのでバスの中でも
眠り込み、「お客さん、終点ですよ」の声で
起こされるのが日課でした。

その甲斐あって彼は高校に無事合格し、
卒業後はイタリア料理店で働くようになりました。

その頃、我が家では主人が胃を全摘し、
肝臓がんも併発するなど、闘病生活で
体はひどく痩せ細っていました。

私は台所でいろいろなスープを作っては
主人に飲ませるなどしていましたが、私自身
も疲労からくるたびたびの目眩に悩まされ
ていました。

前述の教え子が訪ねてきてくれたのは、
そんなある日のことです。

「ご主人様がご病気と聞いてチーフにスープ
の作り方を習って持ってきました。

これ一袋で一食分の栄養がとれます」と、
一抱えもあるスープを手渡してくれたのです。

私は感激のあまりしばらく何も言葉が出ず、
「……これが本当の神様だわ」と呟いて、
わんわん声を出して泣いてしまいました。

すると、その子がまだ中一だった頃、
「皆にいじめられても頑張るのよ」と私が
肩を叩いて励ましたのと同じように、
「先生、泣かないでください」と私の背中
を叩いて慰めてくれたのです。

その後も彼はスープがなくなる頃になると
家を訪ねてくれ、おかげで余命三か月と
言われた主人が、三年も生き長らえること
ができました。

私はこのスープを「究極のスープ」と呼ん
でいますが、人間同士の世の中がそうして
お互いに尽くし合ってやっていけたらどんな
にかよいだろう、と思ったことでした。 …