貧者の一灯 ブログ

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貧者の一灯・一考編

2022年10月08日 | 貧者の一灯






  
  






●「人間は弱い者である。
 たとえ幾多の才があっても、大きな意欲が
 あっても、『ダメな奴』と言われればたちまち
 しぼんでしまう。

 逆に、才がなくても気力がなくても、
 相手の一言によって生きる力を
 与えられる」:『忘れえぬ言葉』

●「何十億の人に、かけがえのない
 存在だと言ってもらわなくても
 いいのだ。

 それはたった一人からでいい。
 『あなたは、わたしにとって、
 なくてはならない存在なのだ』
 と言われたら、もうそれだけで
 喜んで生きていけるのではない
 だろうか」:『三浦綾子』

三浦綾子さんは、日本が戦争に負けた
ことがきっかけで、これまで教師として
子どもたちに教えてきたことに
むなしさを感じます。

そして、人も自分も信じられなくなり、
自殺までしようとします。

しかし幼なじみの前川正さんの
おかげで、ようやく、信じられる
存在に出会えます。

ところが、まもなく、最愛の人、
前川さんは病死。

悲しみの底に突き落された綾子さんは、
肺結核とともにおこった脊椎カリエス
のため、ベッドの上でギブスにくるまれ
て身動きできず、ただ泣くことしか
許されないありさまでした。

1年後、生前の前川青年とそっくり
の三浦光世さんが不思議なことに
彼女の病室に現れます。

「神様、この人のために自分の命を
捧げてもかまいません。ですから、
この人を治してください。」と祈った
三浦光世さん。

「あなたは、わたしにとって、なくては
ならない存在なのだ」 というメッセージ
を綾子さんは、前川さんや光世さんを
通して神様からいただいたのです。

13年間の闘病生活を終え、
綾子さんと光世さんは結ばれます。

わたしたちは本来、一人ひとりが
なくてはならない存在です。

この世に不要な人は、ひとりも
いません。 生きている人には、
必ず、生かされている理由が
あるのです。

「だれかを幸せにする」

三浦綾子さんの使命は、人間の
罪深さと神様の愛を伝えるために、
小説を書くことだったのでしょうか。

小説やエッセーを通して、 「自分が
どんなにダメに思えても、あなたも
わたしも、神様にとっては大切な
子どもなのですよ」 というメッセージ
を伝えることだったのかもしれません。

わたしたちにも、人生の使命があります。

たぶん、わたしたちの最も貴く、
価値ある使命は、 「だれかを幸せに
すること」

だれか一人でも幸せにできれば、
わたしたちは、十分に価値ある時間
を過ごせたのではないかと思うのです。

あなたは大切な人だと伝えよう。 …











※ 私たちは死を支える 


兵庫県小野市の「めぐみ小野訪問看護
ステーション」所長の北山臣子(しんこ)さん
(55)が、私たちに一人の女性の話を
してくれた。

小林津也子(つやこ)さんという。
乳がんを患い、45歳で亡くなった。

「ホームごたつで亡くなりました。そこが、
彼女の居場所だったんです」  

小林さんと北山さんはともに3人の子ども
の母親で、末っ子同士が小学校の同級生
だった。

在宅療養を選んだ小林さんは、
玄関に近いリビングのこたつで毎日、
寝起きしていた。

そこなら2階のベッドにいるより、子ども
たちと触れ合うことができる。  

2010年春、医師からの連絡で北山さん
が駆けつけると、小林さんはこたつに
横になり、まさに息を引き取るところだった。  

夫が「津也子、ようがんばったよ。

ありがとう」と声を掛けると、片方の
目からぽろっと涙がこぼれた。  

当時を思い出し、北山さんの口調が
熱っぽくなる。  

「ベッドじゃなくてもいいんです。
『いってらっしゃい』と『おかえり』が
言えることが大事なんです」  

北山さんが訪問看護ステーションを
立ち上げたのは、09年のことだ。

かつては家でのみとりを支えたくても、
制度も地域の体制も十分でなかった。

病院に搬送されて延命治療を受ける
患者を前に、「家に帰って死ぬのは
できないんやな…」と嘆く家族の声を
いくつも聞いた。  

ステーションでは医師と連携し、
24時間体制をとる。

北山さんは1日に4、5人の患者をまわる。  

患者の女性に死後の毛染めを頼まれ、
亡きがらの髪の毛を染めたこともある。

「本人が、そして家族が、いい最期だ
と思えるよう、私たちは死を支える」。
それが北山さんの信念だ。  

7月初め、私たちは北山さんと一緒に、
末期がんで闘病中の佐藤純一さん
(仮名)の家を訪れた。  

北山さんがオフコースの曲を歌いながら
血圧を測り、体をきれいに拭いていく。

「あなたに会えて ほんとうによかった
/嬉(うれ)しくて 嬉(うれ)しくて言葉に
できない」  

純一さんの妻、えみさん(仮名)は、
その歌声を聞きながら台所で涙を
流していた。

「お父さん、良かったな。
歌、大好きやもんな」  

その4日後、純一さんは静かに
息を引き取った。


※ 笑わへん日、あらへんもん。


血液のがんを患っていた佐藤純一さん
(仮名)が70代で亡くなったのは、7月
初めのことだった。

看護を担当していたのが、「めぐみ小野
訪問看護ステーション」所長の北山臣子
(しんこ)さん(55)だった。  

梅雨が明けた頃、私たちは佐藤さんの
家を訪ね、遺影に手を合わせた。

祭壇にビール系飲料の250ミリリットル缶
が供えてある。

「すぐ赤(あこ)うなる。やみつきや」。
耳の奧で純一さんの声がした。…  

純一さんの取材では、いつもそばに
妻のえみさん(仮名)が寄り添っていた。  

純一さんは昨年11月にがんが分かり、
入院した。

病院の医師は「もう長くはない」という
口ぶりだった。

意識がもうろうとし、会話ができない
時期もあったらしい。  

「あの頃は、おおかた死んでたんや。

おばあさん(母親)が出てきので、
『そっち、いってもいいか?』って
聞いたら『あかん』って。

さんずの川の手前やね」  

いったん退院したものの、2月に再び
病院に入る。当時、抗がん剤治療に取り
組んでいたが、いい結果が出なかった。

抗がん剤を続けるのか、それとも…。  

「家族で話し合い、『お父さん、もう家に
帰ろうか』って」と、えみさん。

3月半ば、純一さんは自宅に戻った。
その日、介護タクシーでわが家に着いた
純一さんは、4人に体を抱えられながら、
長男夫婦や孫と暮らす家の階段を
上がった。  

「ベッドに、ドンと置いてもろた時、
涙が出てきた。うれしかったのと、
やれやれ、という安堵(あんど)感と」。

そして、少しずつ元気を取り戻した。  

入院中、固形物はほとんど食べられ
なかったが、退院して約3週間後に
好物のトンカツを口にした。

厚さ1ミリに薄くスライスしたら、
飲み込めた。

純一さんは「こまい身やけど、トンカツ
の味がした。これや!って」  

えみさんが作った「白菜と豚肉の炊(た)
いたん」も、刺し身もカレーも食べられた。

点滴は必要なくなった。

往診医の篠原慶希さん(69)の許可を
得て、長男と晩酌を楽しむようになった。  

純一さんは毎晩、「今日も一日、
ありがとうございましたー」と言って、
目を閉じた。

取材ノートに、こんな言葉が残っている。  

「わが家、いいですよっ。
笑わへん日、あらへんもん」 …