アマデウナヅキンです。イタリア敗退したとはいえ、やはりサッカーの国。ネイマールのPKに盛り上がっています。
ここは、ミラノの象徴、大聖堂ドゥオーモです。世界最大級のゴシック建築で、容積も、広さもいずれも世界第2位。広さの1位はバチカンなので、その規模がうかがわれます。135の塔があって、全部に聖人が立っているそうです。一番高いのは聖母マリア。
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写真ではなかなか威容をお伝えし切れません。
さて、この街にアマデウスがやってきたのは、1770年。モーツァルト父子は、サン・マルコのアウグスト修道会修道院に宿泊したようです。レオポルトの妻への手紙では、この宿泊場所が快適で、無料で3つの部屋があてがわれた事が書かれているそうです。けっこう有名だったのかもしれませんね。
ミラノ総督府長官を務めるカール・ヨーゼフ・フェルミアン伯爵は、モーツァルト父子を支援していたので、総督の公邸
メルツィ宮の近くだったそうで、そういう便宜があったのかもしれません。
総督府長官カール・ヨーゼフ・フェルミアーン伯爵はザルツブルクの大司教シュラッテンバッハ伯の前任者レオポルト・アントン・フェルミアーンの甥となる人で、レオポルトがミラノにおいて最も頼りにした人だったみたいですね。実際、伯爵は父子を随分助けてくださったようです。
1770年のミラノは人口が約12万人、ハプスブルク家の支配下で、ミラノの最高に輝いていた時代とも言われるそうです
。音楽においても大バッハの末息子クリスチャン・バッハが1760年から2年間ドゥオーモのオルガ二ストを勤めていたというのですから、芸術文化の中心地だったようですね。
ちょっと驚くのは、当時の江戸の人口が80万人くらいだったんじゃないかと言われていて、そこまでではないにしても、けっこうなものだったんだなと思います。逆に、江戸がどんなところだったのか、もし、このころ、にほんが多くの国と交易していたらどんな風に伝わっていたのかなと興味が湧きました。
では、ここからスカラ座まで、ミラノを堪能します。
ここは、ミラノの象徴、大聖堂ドゥオーモです。世界最大級のゴシック建築で、容積も、広さもいずれも世界第2位。広さの1位はバチカンなので、その規模がうかがわれます。135の塔があって、全部に聖人が立っているそうです。一番高いのは聖母マリア。
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写真ではなかなか威容をお伝えし切れません。
さて、この街にアマデウスがやってきたのは、1770年。モーツァルト父子は、サン・マルコのアウグスト修道会修道院に宿泊したようです。レオポルトの妻への手紙では、この宿泊場所が快適で、無料で3つの部屋があてがわれた事が書かれているそうです。けっこう有名だったのかもしれませんね。
ミラノ総督府長官を務めるカール・ヨーゼフ・フェルミアン伯爵は、モーツァルト父子を支援していたので、総督の公邸
メルツィ宮の近くだったそうで、そういう便宜があったのかもしれません。
総督府長官カール・ヨーゼフ・フェルミアーン伯爵はザルツブルクの大司教シュラッテンバッハ伯の前任者レオポルト・アントン・フェルミアーンの甥となる人で、レオポルトがミラノにおいて最も頼りにした人だったみたいですね。実際、伯爵は父子を随分助けてくださったようです。
1770年のミラノは人口が約12万人、ハプスブルク家の支配下で、ミラノの最高に輝いていた時代とも言われるそうです
。音楽においても大バッハの末息子クリスチャン・バッハが1760年から2年間ドゥオーモのオルガ二ストを勤めていたというのですから、芸術文化の中心地だったようですね。
ちょっと驚くのは、当時の江戸の人口が80万人くらいだったんじゃないかと言われていて、そこまでではないにしても、けっこうなものだったんだなと思います。逆に、江戸がどんなところだったのか、もし、このころ、にほんが多くの国と交易していたらどんな風に伝わっていたのかなと興味が湧きました。
では、ここからスカラ座まで、ミラノを堪能します。