旅路(ON A JOURNEY)

風に吹かれて此処彼処。
好奇心の赴く儘、
気の向く儘。
男はやとよ、
何処へ行く。

Kafka on the Shore

2007年12月11日 22時28分51秒 | Weblog
「Kafka on the Shore」は、村上春樹著「岸辺のカフカ」の英訳である。数年前に「風の声を聞け」と「ノルウェーの森」の英訳を買っているので、村上春樹の英訳はこれで3冊目になる。日本語と英語を対照比較しながら読み進めば英訳の「Norweigian Wood」をなおさら興味深く読める。英語という言語が平明で明快な性質をもっていることが容易に理解できる。

いまさら英語の勉強でもない。英文和文の二本立てで読むことが、数十年前に好きな映画「ゴッド・ファーザー」の原著や半藤一利著「日本の一番長い日」の英訳である「The Longest Day of Japan」を読んだ頃からの、私のささやかな趣味なのだ。以来、日本語で読んだことがある著作の英訳や見たことがある洋画の原著や英語のシナリオをみつけると無性に読みたくなる。最近では英文「ジョーズ」のシナリオの臨場感に圧倒された。

アルベール・カミユは好きな作家のひとりだ。英訳が5冊ばかりある。フランス語の原著には全くといってよいほど歯が立たないが、たまにこの英訳を読むと下手な和訳よりも解り易いことがある。たとえば和訳では「分別ざかり」となっているサルトルの英訳のタイトルは「The Age of Reason」である。まだ目を通していないが少なくともタイトルは英訳の方が数段センスがいいように思われる。


如浄曰く

2007年12月11日 21時32分51秒 | Weblog
『すべてのひとは生まれながらに仏であるという考え方がある。こういう考え方を突き詰めると、すべては自然の計らいなのであるから、さとりを開くための修行をする必要がないということに帰結してしまう。このように、あらゆる存在は自然であると考えることは仏の教えとは無縁である。

自らの意識のみをはたらかせて、仏の教えもそうなのであろうと想像することは、本当はわかってもいないのにわかったといい、さとってもいないのにさとったというのと同じようなものである。すべての存在は、自然の計らいによっているのではない。因縁によって意義を与えられるのである。この因縁について解明することがさとりへの道である。』

大谷哲夫著「永平の風」より抜粋改竄

従兄弟の来日 Ⅳ

2007年12月11日 21時01分31秒 | Weblog



広島に滞在する予定であった10日余りの最終日は宮島に渡った。3年前に広島に滞在した際に一度渡って紅葉谷、弥山、大聖院は観光済みである。今回は、先の滞在で修理中であった宮島神社と回廊の観光に重きを置いた。

帰りに豊国神社に寄った。再三にわたって下から眺めたことがある。登ったのは初めてだ。400年前に建築されたという。がっしりとした枠組みのお寺かと思っていたら実は神社なのである。明治の世の廃仏毀釈の名残であろう。

参道にある「もみじ饅頭」の老舗「藤井屋」の「井」の字が「い」に変わっていた。「宮島」通のジャパニーズの従兄弟が理由を尋ねた。つい最近、わざわざ「井」をいろはの最初に当たる「い」に改めて、創業の初心を忘れないようにする気持ちを込めたのだそうだ。