旅路(ON A JOURNEY)

風に吹かれて此処彼処。
好奇心の赴く儘、
気の向く儘。
男はやとよ、
何処へ行く。

中村元訳「ブッダ最後の旅」

2005年10月08日 00時09分21秒 | Weblog
                 中村 元


訳者中村元がその解題で述べているように、神話的な潤色を除去して歴史的人物としてのブッダを究明するために、パーリ語の原文を批判的に邦訳した「大パリニッバーナ経」に、自ら解り易く「ブッダ最後の旅」という題をつけた。この「ブッダ最後の旅」の第一章は、「鷲の峰にて」から始まる。ブッダはここで、ヴァッジ族を征服しようとする大国マガタの国王の大臣でバラモンのヴァッサカーラに対して次のように説く。

『ヴァッジ人は、
①しばしば会議を開き、会議には多くの人々が参集する。
②協同して集合し、協同して行動し、協同して為すべきことを為す。
③未だ定められていないことを定めず、既に定められたことを破らず、往昔に定められた旧来の法に従って行動しようとする。
④古老を敬い、尊び、崇め、もてなし、そうして彼らの言を聴くべきものと思う。
⑤良家の婦女・童女をば暴力で連れ出し捉え留めることを為さない。
⑥内外の霊域を敬い、尊び、支持し、そうして以前に与えられ、以前に為されたる、法に適った彼らの供物を廃することがない。
⑦真人(尊敬されるべき修行者)たちに、正当の保護と防御と支持とを与えてよく備え、未だ来たらざる真人たちが、この領土に到来するであろうことを、また、既に来た真人たちが、領土のうちに住まうであろうことをねがう。
ヴァッジ人がこの7つをまもっているのが見られる限りは、ヴァッジ人に繁栄が期待され、衰亡はないであろう。』

大臣ヴァッサカーラ、応えて曰く。
『きみ、ゴータマよ。衰亡を来たさないための法の一つを具えているだけでも、ヴァッジ人に繁栄が期待され、衰亡はないであろう。況や、7つすべてを具えているなら、なおさらです。』

神話的な潤色を除去して、歴史的人物としてのブッダを究明するために「大パリニッバーナ経」というパーリ語のお経を邦訳してみるとこういう話になる、と、原始仏教の大家である文化勲章受賞 中村元は説き続けるのです。ここまで平べったくお経を邦訳されると、なんだか新鮮な味わいがあって釈迦の思想に一歩近づけたような気になる。

葬式仏教に慣れ親しんだわが身からすれば、お経というと何だか線香臭い。諦念の香りが漂うものだ。ところが、こういうお経の解釈の仕方もある。「お経」は「お教」ではない。暁烏敏(あけがらす はや)の対極にあるような仏典解釈。「ブッダのことば」「ブッダの 真理のことば 感興のことば」とともに当分手元から放せそうにない。

南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏

抵抗権

2005年10月04日 13時26分03秒 | Weblog

いくら謝罪されようが、お金を積まれようが、ひとは、自分の肉親や愛するひとを殺傷した者を許しません。謝罪は当然のことであり、お金を受け取るのが目的ではないのですから。

肉親や愛するひとを殺傷した者に対して深い反省を求めるために制裁を加えます。確かに、国権の発動としての戦争の場合、制裁の加え方が難しい。7人のA級戦犯の絞首刑や戦後保障によって謝罪が済んだと考える方がおかしいのではないでしょうか?

国権の発動としての戦争には反対です。しかし、肉体的精神的自由を故もなく侵害する者に対しては、自衛のために徹底的に戦いますよ。死を賭してでも。

漫画「三国志」

2005年10月04日 11時30分01秒 | Weblog
                諸葛亮孔明


漫画「三国志」を読み終えた。話の流れについては岩波文庫の「三国志」よりも解り易い。劉備と曹操、孫権の野望、孔明ほか軍師の策術、関羽や司馬仲ら頭目の破天荒。史上の人物たちが繰り広げる歴史絵巻は、さながら血沸き肉踊る。英文の方が読みやすかった「古事記」も、漫画で読んだことがある。やはり、解り易かった。

最近の古本屋さんでは、漫画の売り場が圧倒的に広い。それでも、わたしが読んだ漫画の単行本は、ジョージ秋山「浮浪」、西岸良平「3丁目の夕日」に止まる。弘兼憲史の「黄昏れ流星群」は途中で投げ出した。余りに重すぎる。

ちなみに、近くの古本屋さんでは漫画は半額。文芸・思想・古典関連は、ハードカバーで300円から500円。古本屋を営んでいる古い友人は、「究極のところ古本の価値は、客が決めるのだから。売れるものしか店に置かない。」という。

近くの古本屋さんでは、重厚な装丁の岩波日本思想体系「道元」上下二巻が1000円で、ぺらぺらの漫画は一律定価の50パーセント引きで売られている。この国の活字文化は、一体どうなっていくのだろうか?かなり不安である。

コスモス

2005年10月01日 01時04分49秒 | Weblog

高速を、広島北インターから千代田まで抜ける。千代田から「そばの里」豊平に入る田舎道沿いでは、民家の庭や空き地に、土手や畑に、コスモスが咲き乱れている。先々週のドライブでは、毒々しい赤の彼岸花が盛りであった。山や里は、夏から秋へと装いを改めつつある。

吉川元春の城跡にある「そば屋」でざるそばを食い。どんぐり村では、好きな抹茶のソフトクリームを食った。千代田と豊平の「道の駅」では、採れたての新鮮な野菜や果物を売っている。富有柿と小ぶりな早生りんごを買った。たまには、行き当たりばったりの「ひとりドライブ」も悪くはない。 

朝倉喬司著「ヤクザ・風俗・都市」 ②  美空ひばり

2005年10月01日 00時04分50秒 | Weblog


朝倉は『「血」と「性」の狭間に揺れる国民的スター』というルポで、美空ひばり・山口百恵・松田聖子を論じている。血と性という独創的な概念道具を使って、芸能界の深層にメスを入れていく朝倉の手法には説得力がある。

林与一は、ひばりファミリーについて「はっきり言えば、敵か味方かで、味方については肉親のように接してきたわけ。」と語ったという。『即ち石井寛や川口松太郎は「パパ」、清川虹子は「ママ」、金田正一は「お兄さん」、鶴田浩二は「お兄ちゃん」、萬屋錦之介は「錦兄い(きんにい)」という具合である。・・・山口組三代目・田岡一雄は「オジさん」と呼んだ。・・・このような血の象徴性は、近代の発展とともに性に圧倒されるしかないとミシェル・フーコーは言う。』ここで、朝倉は、ひばりファミリーに性の匂いが希薄であることを指摘する。