むかわの阿呆演劇日誌

演劇についての劇日誌やつれづれの演劇、映画の感想や日々のつぶやき。写真もあげます。

映画「シアトリカル 唐十郎と劇団唐組の記録」

2008年04月28日 21時52分30秒 | Weblog
 まずひとこと、すべての役者という人はこの映画をみるべし。
 (京都シネマで5月9日まで上映中)

 これがすべてである。役者とはなんなのか。なぜ、こうして芝居をするのか。

 劇団唐組は特別ではない。私の知り合いの未知座小劇場も、どくんごも、浮狼舎も燐光群もそして、自分の劇団もそのようにあるなあと思った。ただ、集団は分業化すれば、簡単なサークル化をするが、それは表現集団であるのかは難しい。表現個人も悪いわけではない。それは時代の要請というか、より淋しいひとの情報化社会のピースにすぎなくなっているわけだから、一方でプロデュース化も必然ともいえる。

 では、唐組は大家族かというとそうではない。唐組アトリエは芝居をするための稽古場だ。それも、毎日、昼から稽古がはじまり、夜になって酒がはいり楽しく宴会場になるかというと、そうにはならない。

 唐十郎は役者なのだ。

演じつづけることとは、彼はいう。観客の目をとおして、自分がどのようにみえるのか。それがわからないのだ。それをさがしつづけている。それが役者だと。

 それは観客にとって、楽しい受け入れられる存在ということではない。観客そのものが役者をみることで、観客が変っていく存在になっていくこと。

 この映画はそのこともふまえ、虚実を行き来する。

 それはこの映画の監督大島新(大島渚の次男)がドキュメンタリーとはなにかを知っていることなのだ。ドキュメンタリーは真実を映し出すのではなく、真実を浮かびあげるだけなのだ。そこから、ドラマよりせまるものがあるということだ。個人的であるが、自分も思わずあるあると笑ったり、そうだよなと身につまされて泣いたり。遠い世界での快楽解消ではなく、いまいきることはなんなのかを身にしみていく。

 唐の天才ぶりはとてつもないが、劇団員たちの唐の目をとおしていきようとしつづける役者たちの純粋さがとてもまばゆい。それが舞台にあらわれていくのだなあと思った。

 今回の「夕坂童子」で赤松由美が藤井由紀にならぶ二枚看板になったなあと思うぐらいとても美しくせつなかった女優が表われていた。

でも、唐さんの恐さは酒がはいってから、本質をつらぬくダメだしが、悪魔がかたるように出始めるというのがすごい。ここからがほんとうの稽古。人間はなにものかまで、すくいあげうつしだしている。ファウストにすでに唐さんは魂をうってしまっているのかもしれない。
 ただ、アル中の戯言ではない。酒の力をかりて、バッカスの神がおりてきて、自分の神性を認めない人々を狂わせたり 動物に変えるなどの力を示すように、畏怖される存在に化けて、すぐ出来て、やってしまう役者をちゃんとただの人間にもどしてしまうのがみごとであり、ふるえあがってしまう。

 ちなみに、私もそんなことをしているのか。こりゃ、多重人格ですね。
コメント
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