ラ・ムーブメント朗読教室生ユニット「ヤマコジ」発表会
5月28日(水)西陣ファクトリーガーデン PM7:30~
川上弘美「離さない」 ~「神様」より~ コジマ キョウコ
川上弘美「一実ちゃんのこと」~「Teen Age」より~ ヤマガタ 由美
西陣ファクトリーガーデンはガーデンのもともとの織屋の木造家屋すっきりとした簡素であるが居心地のよい場所に仕立て上げている。舞台には石を流線型にしたてあげていて、
どこか心地よい庭のようでもある。そのまん中にピアノイス。舞台奥面にはもともとの木造壁をさらにデザインされて新しい町屋にようだ。客入れには心和ませる音楽。
その場所で二人の語りがはじまった。
二人が語られた川上弘美さんは実は読んだことはなく、別のユニット公演で「龍宮」という作品から3本聞いた。今回もそうであるが、日常のなかで当たり前に異邦の生き物とのつきあいのなかでおこるその人間のこころ変化の話だ。それも日常も見方が変えるといつでも別世界になるのだよと物語っている。
この二人の作品を聞いてコジマさんのは「人魚」。ヤマガタさんのは「クローン」という
タイトルだとてっきり思ってしまった。それはイメージの断片断片で残るものがあり、それはコジマさんの場合は美しく、ヤマガタさんの場合はコミカルさが感じられるものだったからだ。それは二人が未熟であるということではない。場所の感覚が物語からはじまっていないからだ。
はじめに今回の西陣のつくられた、意図された心地よい場所であることを書いた。私という客も開演までこのここちよさのなかに和んでいたのだ。その感覚からふたりの語りを聞くことになる。
数日後、林さんの朗読を聞いた。みごとにひきこまれ、こちらも入り込んでいった。林さんと出口で見送られてよかったですよと声かけると、謙遜されて、体力がいりますからと言われていた。
林さんの感想はまた別でかくことにして、ヤマコジの今回の感想をかくと、場になじんでないせいで、ふたりともいつもの自分のからだではなく、負荷緊張がはいっている。ここにいているのかという感じだ。そのことが、物語に集中することで、動かそうとしたのではないか。
そのため、ふたりともお客さんの気配(空気)を自分の生理として呼吸していない。むしろ、物語にその呼吸を求めた感じ。下半身が固まっているようにみえた。コジマさんははじめのつかみがいきなりで、そのまま自分にかえさず流していく感じ。だから、はじめの設定はわからなかった。ヤマガタさんは斜めから語られていて、これもはじめのつかみがないから、この斜めから、そして、ときには演技的になるから、部分の印象だけがつよくなる。だから、聞いている方は話すことのかたりについていって組み立てようとする生理が動く。なので、わたしには「人魚」で「クローン」なのだ。良い話なんだろうはつたわる。でも、語り手の生身が気配となってはいってくるものはちいさかった。
これは朗読=語りといこともひとりでは成立しないまさに演劇である構造を証明するものであった。ふたりの物語の世界があるだけに、残念。コジマさんは詩的感覚世界。ヤマガタさんはユーモア世界。
コジマさんが今度の公演の宣伝、今回のとは全然違います。というところに、無意識のできなさを感じたのは深読みしすぎているだろうか。でも、他流公演はまさにじぶんをいろいろ映し出すということでとても大切な演劇深化のプロセスだと思います。
次はどうなるんだろうととても楽しみにしてしまう。まさに演劇をいきるプロセスにあるユニットであり、未生である可能性を感じます。
5月28日(水)西陣ファクトリーガーデン PM7:30~
川上弘美「離さない」 ~「神様」より~ コジマ キョウコ
川上弘美「一実ちゃんのこと」~「Teen Age」より~ ヤマガタ 由美
西陣ファクトリーガーデンはガーデンのもともとの織屋の木造家屋すっきりとした簡素であるが居心地のよい場所に仕立て上げている。舞台には石を流線型にしたてあげていて、
どこか心地よい庭のようでもある。そのまん中にピアノイス。舞台奥面にはもともとの木造壁をさらにデザインされて新しい町屋にようだ。客入れには心和ませる音楽。
その場所で二人の語りがはじまった。
二人が語られた川上弘美さんは実は読んだことはなく、別のユニット公演で「龍宮」という作品から3本聞いた。今回もそうであるが、日常のなかで当たり前に異邦の生き物とのつきあいのなかでおこるその人間のこころ変化の話だ。それも日常も見方が変えるといつでも別世界になるのだよと物語っている。
この二人の作品を聞いてコジマさんのは「人魚」。ヤマガタさんのは「クローン」という
タイトルだとてっきり思ってしまった。それはイメージの断片断片で残るものがあり、それはコジマさんの場合は美しく、ヤマガタさんの場合はコミカルさが感じられるものだったからだ。それは二人が未熟であるということではない。場所の感覚が物語からはじまっていないからだ。
はじめに今回の西陣のつくられた、意図された心地よい場所であることを書いた。私という客も開演までこのここちよさのなかに和んでいたのだ。その感覚からふたりの語りを聞くことになる。
数日後、林さんの朗読を聞いた。みごとにひきこまれ、こちらも入り込んでいった。林さんと出口で見送られてよかったですよと声かけると、謙遜されて、体力がいりますからと言われていた。
林さんの感想はまた別でかくことにして、ヤマコジの今回の感想をかくと、場になじんでないせいで、ふたりともいつもの自分のからだではなく、負荷緊張がはいっている。ここにいているのかという感じだ。そのことが、物語に集中することで、動かそうとしたのではないか。
そのため、ふたりともお客さんの気配(空気)を自分の生理として呼吸していない。むしろ、物語にその呼吸を求めた感じ。下半身が固まっているようにみえた。コジマさんははじめのつかみがいきなりで、そのまま自分にかえさず流していく感じ。だから、はじめの設定はわからなかった。ヤマガタさんは斜めから語られていて、これもはじめのつかみがないから、この斜めから、そして、ときには演技的になるから、部分の印象だけがつよくなる。だから、聞いている方は話すことのかたりについていって組み立てようとする生理が動く。なので、わたしには「人魚」で「クローン」なのだ。良い話なんだろうはつたわる。でも、語り手の生身が気配となってはいってくるものはちいさかった。
これは朗読=語りといこともひとりでは成立しないまさに演劇である構造を証明するものであった。ふたりの物語の世界があるだけに、残念。コジマさんは詩的感覚世界。ヤマガタさんはユーモア世界。
コジマさんが今度の公演の宣伝、今回のとは全然違います。というところに、無意識のできなさを感じたのは深読みしすぎているだろうか。でも、他流公演はまさにじぶんをいろいろ映し出すということでとても大切な演劇深化のプロセスだと思います。
次はどうなるんだろうととても楽しみにしてしまう。まさに演劇をいきるプロセスにあるユニットであり、未生である可能性を感じます。