むかわの阿呆演劇日誌

演劇についての劇日誌やつれづれの演劇、映画の感想や日々のつぶやき。写真もあげます。

芝居夢中記「壬生大念仏会」

2012年05月01日 16時34分46秒 | Weblog
芝居夢中記「壬生寺大念仏会」
2012年4月29日(日)PM3:00~3:40頃 

壬生狂言「愛宕詣」
春の壬生狂言。21日~29日まで、昼から夕方の5演目あるなかで、今日は「愛宕詣」の一演目をみた。
 壬生狂言は無言劇。面と動きで
話をみせる。大念仏講というようにここには教えみたいなものがみてとれる。
 この「愛宕詣」愛宕詣にくるお茶屋に母と顔かくした娘の一組がそのあとを武家主人におつきのものが、土器なげをやり、(実際は炭酸せんべいをなげて、観客は喜ぶ)いこうとしたら、武家は娘に気づき、惚れてしまう。
おつきに、声をかけものにしてこいといって行くが、母親がごうつくばり、なにかよけさなやらんと言う。武家は身ぐるぬいで、おつきのものもぬがせてわたす。このおつきのもの面が小顔のおどけた顔で自分のものをはわたしたくないと小さくかためて、下着にかくすが、ばればれなど。ついつい笑ってしまう。おちは母親は娘渡して、武家がほっかむりをとると、なんとぶさいく極まりない娘におっかけられて、終わり。

仮面に見ぶり手振りでなんとはなしに伝わってくる。個人の芸よりも、型の洗練さがいい。
土俗的な庶民心。面をみると、ほんとに、ひとのこころの欲深さ。わらっているものはほんまは苦笑。でも、明るい喜劇はひとはどないなっても、それなり
にいきていくわと思った。

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現代演劇迷想記「スカイツリーに消えた町」

2012年05月01日 16時22分05秒 | Weblog
現代演劇迷想記「スカイツリーに消える街角」 

唐組「海星(ひとで)」
作・演出:唐十郎
2012年4月28日(土)PM7:00~8:40
大阪城公園太陽の広場内、紅テント

第49回唐組が心配だった。前回の第47回「ひやりん児」なにか、途中で切れた感じで。芝居もなにか宙ぶらりん。そんななかで精華小学校跡地の公演は終わってしまった。確かに登場人物たちはからだに響く像や言葉を紡いで走る。だが、ほんとにそれはひとつ遠い所へいってしまったような寂しさを感じてしまったからだ。
  でも、それはあのサンテンイチイチから、1ヶ月たっただけの日である。いまも実はわからない。どんなイマージュだったのか。「ひやりん児」とははっと
するものなのではと、勝ってな思いをしている。
 もっと、ひりひりして、どないすんねん。そして、わずかながらでも、確かに救われるものがあらわれることを祈るしかない気分であった。
 実はいまもというか、いまだって、わからない。すごく世間が
すぎさり、もちろん、あの大きな出来事から、忘れていくことも大切だ。死者を思う生者としてわたしたちはいきていかねばならないからである。
 だが、政府は、東電はなにもしていない。まさに、人々を収めるものとしての、責務を我が身を晒してみせていないのだ。
それぐらいの、背負いがみられないし、早くも世界はオール電化から次世代のエネルギー開発へ。躍起になっている。
もちろん、それが大切とはいわないが、それが根本の罪をかんじていないだろうし、罪すらも実はわかっていない。

話しがずいぶん迂回してきたが、今回の芝居は町田という男の彷徨いである。とあるメーカーの町田は鐘が淵にて、ある町に彷徨う。涙紙というパーマ屋でチャコという女に出会い、同僚仲とともにその、川淵でであったものはサビたスプーンたちでした。新潟の燕市からであってしまった銀のサビ。それを向島クロムメッキで加工してほしいと思いつくが、それは上塗りすることであの鐘ヶ淵てみたものではない。町田、仲、チャコは、スカイツリーの地場をぬけ、幻の彼方へ。


唐ワールドはまた、ふっかえしていた。わたしは人知れず、我知らずないてしまう。
ほんとにぬりこめられているのは、時代をぬけるものたちであること。わたしはいつ天かける思いを夢見なくなったのかと。

唐さんは漫画家赤塚不二夫のように、ねぎもって、つきつけていた。よろよろする四肢を振りしぼって。

カーテンコール後、暗転になったあと、舞台に一礼する姿は、
とても美しかった。
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